色川武大氏の『9勝6敗戦略』について考えている。
話の前提には、人間というものは、ほうっておくとだいたい勝ちと負けが同じくらいに均衡、収斂しプラマイゼロになる、という認識がある。
勝ち星ばかりの人もいるじゃないかと思うかもしれないが、こう考えるとわかりやすいかもしれない。
つまり勝ち星を「浮世からの借り」、負け星を「浮世への貸し」と考える。
人間は、身一つで浮世に生まれてきて、身一つで浮世を去る。
とすれば、努力して何かを得たとしても、見方を変えればそれは浮世から借りているに過ぎない。
逆に何かを失ったとしても最終的にはプラマイゼロに収束するのだから、貸しているだけかもしれない。
勝ち星負け星、貸し借りが最終的にほぼ均衡するという目に見えないルールみたいなものが浮世にはあって、だいたいそこらへんに従って世の中動いてるのではないか、というのが『9勝6敗戦略』の前提である。
勝ち星負け星、貸し借りの均衡、あるいは禍福は糾える縄の如しとでも言おうか(貸し借りの表現は『うらおもて人生録』p.318あたり、禍福の表現はp.119に負う)。
アメリカのプロスポーツ選手は現役時代巨万の富を得るが、引退後破産する者も少なくないという。現役時代に巨万の富を浮世から「借り」、破産してそれを返したわけだ。
成功したミュージシャンの中には恵まれない幼少期を過ごした者も多い。
人より多く悩み涙を流したぶん、幼い魂のある部分を浮世に「貸し」、成功して取り返すわけである。
あるいはノブレス・オブリージュのように、恵まれた環境に生まれた者は人より多く浮世から「借りて」いるのだから何らかの形で返さなければならなかったり、イスラム世界では喜捨があったり、ネイティブアメリカンのポトラッチpotlatchのように富を均衡させようとしたり、あるいはそういうことしないと断頭台に送られたり、浮世では勝ち負け貸し借り禍福をほぼプラマイゼロに収斂させようという圧力が働くのではないか、というのが『9勝6敗戦略』の根底認識である。
この「ほぼ」プラマイゼロの「ほぼ」がキモで、やりようによっては「天の眼」を盗んで8勝7敗、さらには9勝6敗に持ち込めるのではないか、というのが『9勝6敗戦略』である。
(続く)