子であることの苦しさ、親であることのほろ苦さ

〈「とてもいいストーリーじゃないか」少年の父親は言った。「どんなにいい出来か、自分でわかってるかい?」
「お母さんがパパに送りつけたのは心外だったよ、ぼく」
(略)
「しかし、おまえがあの小説で書いたカモメについてはどこで知った?」
「パパから教わったんじゃなかったかな、あれは」〉(ヘミングウェイ『何を見ても何かを思い出す』 新潮文庫『ヘミングウェイ全短編3』平成九年p.547-548)
 
誰かの子であることは時に苦しく、誰かの親であることは時にほろ苦い。
ヘミングウェイの短編『何を見ても何かを思い出す』(原題『I Guess Everything Reminds You of Something』)では、父と息子の交流のシーンが描かれる。明確には書かれてはいないが、ふだんは離れて暮らしている父と息子は、ひと夏をともに過ごす。
 
父と息子がひと夏を過ごし、何年も時が経つ。ある出来事がわかる。
ああ、あの夏のあれは、ああいうことだったのか。
父の胸に去来する感情を思うと、ただただほろ苦い。
 
畢竟、資本主義の世界ではほぼ全てのものが最終的にお金に換算されてしまう。
どんなに愛し合って一緒になった夫婦でも、こじれれば最後は算定表にしたがい関係は精算される。後腐れ無し、だ。
ただ、親子の関係性ばかりはそうはいかないのではないか。
子が親を思うとき親が子を思うときに発生する感情というのは、時に絡まり解けないパズルとなる。
 
親子の絆と言えば聞こえはよいが、「絆」と字は「ほだし」とも読む。
「きずな」と読めばポジティブな結びつきになるし、「ほだし」と読めば「自由を束縛するもの」となり心をがんじがらめにするものだ。「きずな」も「ほだし」も、どうしようもない。
 
子であることの苦しさ、親であることのほろ苦さと付き合いながら、「親には親の人生がある。子には子の人生がある。親の人生は親のもので、子の人生は子のものだ。ともにそれぞれの人生を自分の足で歩んでゆく。そして、それでよい」という境地を目指してゆくしかないのだろう。