親子という”業”-『孟子』と『毒になる親』

〈(略)「舜が歴山で耕作していた時、田んぼに行っては天を仰いで号泣したと聞きます。どうして号泣したのでしょうか」。
孟子が答えた。「親に愛されないことをうらめしく残念に思い、また親を思い慕ったのだ」。
(略)
『自分は力を尽くして田んぼを耕し、子として慎んで職務を果たすだけだ。父母が私を愛してくださらないのは、きっと私に何らかの罪があるからなのだ』」。〉(佐野大介『孟子』角川ソフィア文庫 平成27年 p.160-161)
 
何年かぶりに『孟子』を読み返し、万章編でそんな箇所に当たった。書き下し文だと〈舜田に往き、旻天(びんてん)に号泣す。何為れぞ其れ号泣するや、と。孟子曰く、怨慕するなり、と。〉(上掲書p.159)となる。
 
前回読んだときは読み流していたのか記憶にないが、今回『孟子』を読んでみて衝撃を受けた。
舜という中国古典における聖人ですら、親に愛されたくて号泣するのか、ということにである。
 
親子というのは難しい。
特に子どもが小さいときには、親は子どもにとって世界の全てを占める。
〈小さな子供にとって、親は生存のためのすべてであり、そういう意味では、いわば神のようなものである。〉とすら言い切る学者もいる(スーザン・フォワード『毒になる親 一生苦しむ子供』講談社+α文庫 2001年 p.34)。
 
成長の段階で、健全に親との距離感を育み、「親には親の人生がある。私には私の人生がある。親と私は別人格で、まあそれでよい」という心境に到達できればよいが、そうでない人もいる。そうした人は人知れず葛藤し、無条件の愛を求めていつまでも天を仰いで悲嘆にくれる。そして、そういう人は、意外に多い。
 
その葛藤を自覚して意識化できれば救いはある(かもしれない)のだが、意識化できず無意識のうちに自分を突き動かす衝動のもととなってしまうと往々にして悲劇が待ち受けている。
 
だが、分かったようなことをいうのはやめよう。
舜という中国古典の聖人ですら、親子の関係は克服できなかったのだ。
ただ一言、親子というのは“業(ごう)”としか言いようのないものだ、と言うにとどめたいと思う。