科学と建設的批判精神3(再掲)

日本の科学や政治、ビジネスの発展のために足りないのは建設的批判ではないかと考え、さきおとといから思案中。

昔読んだ話。
日本の官僚が対外交渉で振り回されるのが、欧米人のタフネゴシエーターたちだ。
会議のテーブルでは親のかたきかと思うほどガンガンこちらを攻め立て、ありとあらゆる理屈を振りかざして1セントでも多く自らの利益を確保しようとする。
このやろうとはらわたが煮え返る思いで休憩に入ると、手のひらを返したようにニコニコと、コーヒー片手にフレンドリーに話しかけてくる。
なんだいい奴じゃないか、わかってくれたのかと思って交渉を再開すると、再びティラノサウルスのように攻撃的になる。
そのくりかえしで振り回され揺さぶられ、気がつくと相手に譲歩しているというのが日本の対外交渉なのだと書いてあった(現在もあてはまるかは不明)。

知行合一、言行一致を旨とする東洋人にとって摩訶不思議なことに、そうした欧米のタフネゴシエーターにとって発言内容と発言者の人格は別物だ。
交渉中はあくまでも発言内容が正しいかどうかが大事、個人としての人格はまた別の話なのだ。
西洋発のディベートでは、テーマに対するプロとコン(肯定側立場と否定的立場)は、個人の思想信条と切り離して割り振られる。
あんなことを子供のときからずっとやっていれば、欧米人パワーエリートにとって、人格や信条と切り離しての議論や交渉なんてのは朝飯前なのだろう。

ではどうすれば発言と発言者を切り離して議論することができるか。
お国柄や社風を変えるというのは時間がかかるので、まずはシステム化しやすい会議の場に限って考えたい。

以前にwebで読んで今回はソースを確認できなかった話だが、ある企業の会議では、会議中「私の考え」や「社長のアイディア」とは決して言わずに、あくまでも「A案」や「B案」という言い方をするという(うろ覚え)。
たとえば○○社の買収という議案があるとする。
会議で「社長の提案した○○社の買収について話しあいましょう」という言い方をすると、○○社の買収に反対な者も提案者の社長に気を使って表だった批判がしにくくなってしまう。
その結果、建設的批判が出にくくなり、合理的判断が歪む。

これに対し、「○○社の買収というA案について話しあいましょう」といういい方をすれば、提案者の社長とA案を切り離して論じやすくなる。
「社長の提案した案は全然ダメです」という批判は角が立つが、「A案は全然ダメです」という批判なら発しやすく受け入れられやすい。

会議の取り仕切りを任される中堅・中間層が、「『△△さんの言ったこと』『××さんのアイディア』というよりも『A案』『B案』という言い方のほうが冷静で深い議論ができる」と考えてそのやり方を取り入れれば、会議や議論において発言と発言者を切り離すことができる可能性がある。

次に「悪魔の代理人」について述べる。
この概念をはじめて知ったのは岩田健太郎著「悪魔の味方 米国医療の現場から」(克誠堂 2003年)という本だった。
英語でいうとdevil's advocateで、オックスフォード現代英々辞典では「a person who expresses an opinion that they do not really hold in order to encourage a discussion about a subject」とある。
ある考えに対して議論や検討を深める目的で、わざと反対意見を述べる人のことを指す。

あるプランを議論するとき、「それはいいね」「やろうやろう」という人ばかりだとプランは穴だらけのままだ。
だからここで悪魔の代理人が登場し、「そのアイディアにはこんな欠点がある」とか「こんな場合には失敗する」、「似たようなケースではこんな落とし穴があった」とダメだししまくるのである。
プランが走り出す前に悪魔の代理人によって徹底的にダメだしされることでそのプランが鍛え上げられ練り上げられ、走り出してから大失敗するリスクが減るのだ。

佐藤勝によればイスラエルにはそうした役職の人がいて、首相のレポートが発表される前になんでもいいから難癖をつけて首相に深く考えさせるのだそうだ(手嶋龍一・佐藤勝『インテリジェンス 武器なき戦争』幻冬舎親書 2006年 p.183。ここでは「悪魔の弁護人」となっている)。
また、ジャーナリストの河合洋一郎は同じく佐藤勝との対談でこんなことを言っている。

 (以下引用) 
 「(略)最近、モロッコ外交界の重鎮が外交・国内政策を研究する王立シンクタンクを創設したんです。そのシンクタンクの最初の仕事として、今後のモロッコの外交・国内政策提言を作成した。
 彼らはその提言を完成させる前に、外国人に徹底的に批判させて、よりよいものを作ろうとしたわけです。そこでボクとアメリカ人2人が呼ばれた。(略)」

 「モロッコではオレ以外のふたりは、もうボロクソに言っていましたよ(笑)。もちろん建設的な「ボロクソ」だけどね。言うほうは批判するために呼ばれたんだから、ボロクソに言うのは当然。言われるほうも、そのために呼んだんだから当然、みたいな感じがあったな。(略)」
 (引用ここまで。佐藤勝 「野蛮人のテーブルマナー ビジネスを勝ち抜く情報戦術」講談社 2007年 p.153-157)

「悪魔の代理人」や「悪魔の弁護人」の言葉は出てこないものの、考え方は一緒であろう。

発言と発言者の人格や、批判と批判者の人格が同一視されるウェットな日本の会議室では、よりよい案を練り上げるためであってもひとの言ったことにダメだししたりボロクソに言ったりするのは勇気がいる。
まあ、なかには平気でダメだししまくる心の強い人もいるけれど、そうした人はたいてい建設的でなく、批判のための批判をして自分の頭の良さに酔いしれたい類の人である。

ではどうやって「悪魔の代理人」制度を取り入れるかといえば簡単で、深夜営業のドンキホーテに行くだけでよい。
無地のタスキかキャップを買ってきて、そこに「悪魔の代理人」でも「ダメだし人」でもなんでもいいからマジックで書く。
そして会議のはじめに「悪魔の代理人」の考え方について簡単に説明し、誰でもいいから指名してタスキかキャップを付けさせてしまう。

要は、批判やダメだしをするのは提案者に対する悪意や嫌がらせではなく、あくまでシステム上の役割分担に過ぎないということを「見える化」してやるのである。
そうすることによって批判内容と批判者の人格を切り離し、建設的批判が成立しやすい土壌を作ることができるはずだ。
もちろん「悪魔の代理人」は会議ごとに別の人に割り振らなければならない。

そうやってDYB=destroy your businessという創造的破壊の仕組みを会議に内包することができれば、日本の会議も活性化するだろうし、ひいては科学やビジネス、政治の大樹が根付くような、建設的批判をおおらかに受容できる世の中になるのではないだろうか。

以上長くなったが、とにもかくにも最も大事なのは、建設的批判とそれを受容していくことだ。
この考えについてもっとうまく表現するべきだろうが、
ちなみにそれについての批判やダメだしは一切受け付けない。
嘘。

(FB2013年7月20日を再掲)

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