正しいほめかたとイタリア人

実は、イタリア人になるつもりだ。だって楽しそうなんだもん。

 

日本や英米社会が高ストレス化していくばかりなのに対し、日がな一日イタリア人はマンジャーレ・カンターレ・アマーレ(食べ、歌い、愛す)だし、なにしろペペロンチーノでエスプレッソだ。とにかく人生を楽しんでいる感じが素晴らしく、前々から日本にはラテン成分が必要だと思っている。ペスカトーレ。
イタリア人のキメ台詞は「Goditi la vita」、あなたの人生を楽しみなさい、だという。ボンゴレ。(参考サイト 嘘と誓い )

 

ではどうしたらイタリア人になれるのか。やはりドルチェとか食べるのか。

文献によれば、イタリア人はとにかくおしゃべりらしい。

シモネッタことイタリア語通訳の田丸公実子氏は、ガセネッタこと米原万里氏との対談でこう述べた。
<田丸 イタリア人は口上手で話し言葉が豊富。プレゼントあげるとイタリア人は「マニフィコ!スプレンディド!ファヴォローゾ!エッチェレンテ!ペッリッシモ!」って、パーッと言う。でも日本語だと「すばらしい」しかないの。「最も美しい」なんて日本語じゃないし、「卓越した美しさ」だなんて、話し言葉じゃないし。日本語は、書き言葉と話し言葉の乖離が激しい。

米原 日本人は昔からそうなのよ。『枕草子』だって、「あはれ」と「をかし」ぐらいしか出てこないじゃない(笑)。>(『言葉を育てる 米原万里対談集』ちくま文庫 2008年 p.223)

 

そうか、足りないのは“ほめ”だ!イタリア人になるには“ほめ”に習熟せねばなるまい。

そう考えてぼくは、しばらくの間“ほめ”に励んだ。むろん、イタリア人になるためである。グラッツェ。

しかしその結果は散々なものだったことを告白せねばなるまい。

手当たり次第かたっぱしから周囲の人のことをほめてみたいのだが、かえってくる言葉は

「どうも君の言うことはうさんくさいんだよね」

「心がこもってないよなあ」

「なにかたくらんでそう」

マンマ・ミーア、ローマは一日にしてならず。

 

誰かをほめるというのは案外難しいものだ。ほっておくと私たちの舌は、人の悪口を言うようにできている。

嘘だと思うなら試みに、他人をほめながら酒を飲んでみるとよい。誰かをほめながら飲み会をやっても5分で終了してしまうが、誰かの悪口を言いながら酒を飲めば一晩中だって飲み明かせるものだ。
古人曰く、<舌は火である。不義の世界である。(略)舌を制しうる人は、ひとりもいない。>(ヤコブの手紙 第三章)。

 

舌を制し、“ほめ”を極めるにはどうしたらよいか。

悩んだ末、専門家の力を借りることにした。すべてはイタリア人になるためである。

専門家によれば、正しい“ほめ”には6つの原則があるという。
すなわち、①事実を、細かく具体的にほめる、②相手にあわせてほめる、③タイミングよくほめる、④先手をとってほめる、⑤心を込めてほめる、⑥おだてず媚びずにほめる(本間正人・祐川京子『やる気を引き出す!ほめ言葉ハンドブック』2011年 PHP文庫 p.33)である。

特に⑥が難しい。

媚びへつらうつもりがなくても、まかり間違うとやはり“ほめ”ではなく“おだて”、“こび”に聞こえてしまうのが“ほめ”の難しいところだ。

 

上記の『ほめ言葉ハンドブック』には豊富な実例が載っていて参考になる。その中でも特に参考になるのが運と包丁である。

なにか仕事が想像以上にうまくいったとき、「運がいいね」と言われると腹が立つ。

しかし「運がつよいね」「強運の持ち主だね」と言われると、悪い気はしないものだ(参考箇所『ほめ言葉ハンドブック』p.63-64,p175-176)。

また同書は、寿司職人をほめるときには「見事な手さばきですね」とほめてはいけない。「素人にわかってたまるか」と無用の反感を買うからだ。
そうではなくて、「その包丁、よく切れますね」とほめるのがよいという(p.105-106)。

 

これはおそらくこういうことではないか。
ほめの対象となる人物そのものをほめようとすると失敗するが、ほめの対象人物に付随するものをほめればうまくいく。

ほめという言葉の矢を放つときに、的の中心を射抜くのは大変で、往々にして「的はずれなほめ」になる。「的はずれ」なほめは、単なるお追従である。

そうではなくて、的の周辺、ほめの対象人物に関するものごとや、ほめの対象人物が関心のあるものをほめなければならないのだ。

 

ベストセラーとなった『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健 2013年 ダイヤモンド社)にはこんな一節がある。
<アドラー心理学では、子育てをはじめとする他者とのコミュニケーション全般について「ほめてはいけない」という立場をとります>(kindle版 2482/3760 )。なぜなら<ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面がふくまれて>いるから(2482/3760)。

アドラーの見方では、<人は、ほめられることによって「自分には能力がない」という信念を形成していく>(2563/3760)という。だから人は、本能的にほめる人を警戒するのかもしれない。

 

アドラーの顔を立てつつ正しいほめかたを身につけるのはどうしたらよいか。その答えは『嫌われる勇気』の続きである『幸せになる勇気』にあった。

おだてずこびず、相手にイヤな感じを与えずにほめるにはどうしたらよいか。

『幸せになる勇気』が出した答えはずばり<「他者の関心事」に関心を寄せる>(『幸せになる勇気』609/3673。ただし同書自体には「ほめる」とは書いておらず他者に敬意を示す具体的な方法としている)である。

 

エウレーカ!これですべてがつながった。

相手そのものではなく相手に付随するものや相手が関心のあるものをほめよ、というのはそういうことだったのか。

寿司職人自身ではなく職人の持つ包丁をほめるというのは、職人の関心事に関心を寄せるということだし、<相手が尊敬する人物をほめる><経営者をほめる時は本棚に注目>(『ほめ言葉ハンドブック』p.100-103)というのも、まさに相手の関心事に関心を寄せることにほかならない。

ではどうしたら他人の関心事に関心を寄せる、言葉を変えれば相手への尊敬を具体的に示すことができるのか。

この答えもまたシンプルで、相手を虚心坦懐に見ることだ。

<尊敬(respect)の語源となるラテン語の「respicio」には、「見る」という意味があります。>(『幸せになる勇気』491/3673)

イタリア人になるために正しいほめかたを身に着けること。そのためには相手を尊敬し、見ることが重要ということなのだろう。

 

長くなった。

イタリア人になるための旅は、イタリア人の言葉で終えるのがふさわしい。
イタリア人といえば、パンツェッタ・ジローラモ。ジローラモ氏はこう語る。
<私は子供の頃から人間観察が好きだった。>
<今でも私は人を観察することが好き。日常の中で人を見ることが好きだけど、特に旅行で海外を訪れたときの醍醐味は、外国の異文化の中で、いろいろな人たちの表情や癖を発見すること。>
<(略)女性に対してのみならず人をよく観察して、その人に対してのさりげないフォローができるようになったら、オトコとしてだけでなく、ひとりの人として素晴らしいことだと思うし、それが日頃、私が心がけていることでもある。>(パンツェッタ・ジローラモ『ジローラモのイタリア式伊達男のなり方』2004年 河出書房新社)

さすがジローラモ氏、いいことを言う。さっそく『LEON』を定期購読することにする。嘘だけど。

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↓病院でも、「相手の関心事」に関心を寄せるというのは大事ですね。

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『儲かる一言 損する一言』には載っていない、行列のできる小児科医のキラーワード

「うちの小児科がいつも行列ができる秘訣だって?仕方がない、特別に教えてやろう。

子どもを診察するときにこう話しかけるのがコツだ。『ボク、大きいね~、いくつ?』ってね。

だいたい半分くらいの患者さんで使える方法だよ」

先輩の小児科医が言った。

それだけで行列ができるくらい大繁盛するんですか、ほんとかなあ。

クリニック大繁盛の秘密を明かそうと意気込んでいたぼくは、なんだか拍子抜けしてしまった。

 

会計士の田中靖浩氏の新刊『値決めの心理作戦 儲かる一言 損する一言』(日本経済新聞出版社 2017年)の冒頭には、別の小児科医の行列の秘密が書かれている。
<ふつうの小児科医はまず病状を聞いて熱を測り、そのあとすぐに注射や投薬といった治療に入ります。

 しかし、その「行列のできる小児科医」はちがいました。

 お母さんから子どもの病状を「ふむふむ」と聞いた上で、

「大丈夫、すぐ治ります。お母さんが早く連れてきたおかげですよ」

 と、「母親の気持ちに寄り添う一言」をかけるのです。

 わが子を心配する母親に向け、その不安を取り除いた上で「あなたのおかげですよ」と意表を突くねぎらいの一言。

 この予期せぬ言葉に、母親は心をわしづかみにされてしまうのでありました。>(上掲書 kindle版 10/1437)

 

この『儲かる一言 損する一言』では、さまざまなビジネスシーンで差がでる「たった一言」をまとめていて面白い。

講演するためにスーツを新調しにいった著者に「講演会にはどんなお客さまがいらっしゃるのですか?」と質問することで高級スーツを購入するよう誘導した例(カラクリはkindle版 630/1437)、ふつうはメニューに「気まぐれ野菜を添えて」と書くところを「名もなき野菜を添えて」と書いてお客の興味を惹いた例(1255/1437)などなど、「たった一言」でぐぐっと「儲け」を引き寄せた事例が満載である。

 

中でもぼくのお気に入りはタコス屋さんの話だ。

アメリカにいまいち繁盛していないタコス屋さんがあった。運転資金も使い果たし、今にもつぶれる寸前のそのタコス屋に、さらなる悲劇が襲った。強盗に入られたのである。

深夜3時、タコス屋に乗りつけた怪しい男たち。

入口のガラス戸を割り、店内に侵入。キッチンを荒らし、倉庫をひっかきまわし、さんざん店内を探し回ってもお目当てのものは見つからない。最後にレジスターを奪って男たちは逃走した。
店主にとってふんだりけったりとはこのことだが、彼は「たった一言」で運命を大逆転させたのだった。
防犯カメラに映った強盗たちのご乱行をCMに仕立て、「たった一言」、こう添えてテレビ放映したのだ。
「Guy wants a taco/ヤツらはタコスが欲しがった」(上掲書 699/1437)
そのCMがこちら。

www.youtube.com

このCMを見てお客は殺到。つぶれかけたタコス屋にとって、「Guy wants a taco」は、まさに大繁盛のキラーワードとなった。

 

さて、『儲かる一言 損する一言』に出てくる小児科医の話に戻る。

病院というのは時に不親切なもので、軽症の子どもを連れていけば「こんなに軽いのに病院に連れてきちゃダメじゃないか」と怒られたり、重症の子どもで連れていけば「こんなに重くなってから病院に連れてきちゃダメじゃないか」と怒られたりする。どうせいというのだ。
そんなときに「大丈夫、すぐ治ります。お母さんが早く連れてきたおかげですよ」なんて声をかけられたら、すべての母親はその小児科医のファンになるだろう。

ぼくの先輩の小児科医もまた、「たった一言」を有効に使ってファンを増やしているドクターだ。

その秘密の「たった一言」が冒頭の「ボク、大きいね~」だが、もう少し詳しく聞いてみた。

 

「いいか、タイミングが大事なんだ。

赤ちゃん連れのお母さんが診察室に入ってくる。

いろいろと病状を聞く。

熱を測ったり胸の音を聞いたりして、軽症そうなときがいいな。

それからベッドを指さして『じゃあもうちょっと診察させてね。ポンポンみるんでそこに横になってね』と言って赤ちゃんをベッドに寝かせる。

『ポンポンみるからごめんね~』と言って赤ちゃんのオムツを外したら、そのタイミングだ。

『うわあボク、ずいぶん大きいね~!1歳半なのにずいぶん立派だね~!!』

男の子にしか使えない手だが、お母さんたちはみんな胸を張って帰っていくよ」

どうして男の子にしか使えない手なのか、なんでわざわざオムツを外したタイミングなのか、なにがどう立派なのかは専門外のぼくにはまったくナゾだが、たぶん小児科医には小児科医にしかわからない事情があるのだと思う。

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ウソと誤解と魚と毒とー「四月の魚」とは何か?

ウソが恋を生むように、誤解はときに文化を生む。時計の針が12時を回り、頭をよぎったのはそんな言葉だった。

 

12時までに家に帰らなければ、と急いだシンデレラが残したものはガラスの靴だった。

12時を過ぎたら魔法は解け、馬車はカボチャに、ドレスはつぎはぎだらけの服にもどってしまう。だがどうして、ガラスの靴だけは元に戻らなかったのだろうか?魔法が解けたらガラスの靴だって消えてしまいそうなものなのに。

 

靴だけは魔法使いが直接シンデレラに与えたという話がある。もともとシンデレラは裸足で働いていたため、ボロボロの靴さえ履いていなかったというのだ。

しかももともとの民話では「毛皮/vaire/ヴェール」の靴だったのを、ペローが「ガラス/verre/ヴェール」の靴と勘違いしてガラスの靴のイメージが誕生したという説があるそうだ(諸説あり)。

ガラスの靴なんてものはえらく歩きにくそうだし、舞踏会には不向きだが、毛皮の靴のままだったらシンデレラの華やかさはずいぶんと減ってしまうようにも思われる。

誤解が文化を生む例はほかにもある。火星人の話だ。

1877年に火星が地球に大接近したときに、イタリア人天文学者スキャパレリは火星の表面に筋状のものが見えることを発見した。この筋状のものをスキャパレリはイタリア語で「みぞ/canali」と書き記したが、これが英訳されるときに「運河/canal」と誤解されてしまった。

これをみて英語圏では「火星には運河がある!」と大騒ぎになり、運河があるからには火星人がいるに違いない、という話になった(引用元

https://www.i-kahaku.jp/magazine/backnumber/35/02.html )

もともとはcanaliをcanalと誤解したのが発端だが、この誤解がなければHGウェルズの「宇宙戦争」もブラッドベリの「火星年代記」も、ひいては山田芳裕の「度胸星」もなかったかと思うと味わい深い。テセラックはどうなったかなー。

 

ほかにも誤解による文化の誕生というのはあちこちにあって、例えばイチョウの学名はGinkgo bilobaだが、これはその昔ケンペルという学者が日本語のginkyoをginkgoと誤記した名残だし(イチョウ - Wikipedia )、「ブリキ」という言葉も金属の箱に入ったレンガをbrickと呼んだのを勘違いして金属=ブリキとして日本語に定着してしまったという説がある(諸説あり。ブリキ - Wikipedia )

 

誤解が文化を生むと言えば、エイプリル・フールの風習もその一つだ。

エイプリル・フールの起源はフランスだという説がある。
フランス語ではエイプリル・フールのことを「四月の魚/Poisson d'Avril/ポワッソン・ダヴリル」という。

だが実は、これはもともと「四月の毒/Poison d'Avril/ポワゾン・ダブリル」だった。

 

チャールズ・マッケイ『狂気とバブル なぜ人は集団になると愚行に走るのか』(パンローリング株式会社)によれば、ヨーロッパでは16世紀初頭から17世にかけて毒殺が流行した(同書第4章)。

フランスでは1670年から1680年にかけて毒殺が大流行し、この時期<書簡作家のセビニエ夫人もその書簡の中で、フランス人と毒殺犯が同義語になってしまうのではないかという懸念を表していたほどだ>(同書第4章 kindle版2320/13689)という。

その中でも悪名高かったのはブランビリエ侯爵夫人で、この人は愛人サント・クロワの歓心をかうために自らの父や兄を毒殺しただけでなく、実験のために多くの病人に毒入りのスープを飲ませたりしている。

ブランブリエ侯爵夫人は結局1676年7月16日、パリにて処刑された(kindle版2439/13689)。

 

ブランブリエ侯爵夫人が処刑されたあともフランスでは毒殺の流行は止まらず、かえって盛んになるばかりだった。政府としてはこれを見過ごすわけにはいかなかったが、かといって無数の毒殺事件を立証するのはほぼ不可能であった。

 

この状況に苦渋の決断を下したのが当時政府の中枢にいたPierre Daresolet/ピエール・ダレソレである。

哲学者でもあったDaresoletは、古代ローマの思想家Guglecus/ググレカスの信条「鵜呑みにするな、自ら調べよ」の言葉に忠実に生きた人でもあった。Daresoletはフランス全土から可能な限り毒を集めさせ、自ら試していったのだ。

その結果、気候と毒の効果の相関関係が明らかになったのである。

 

フランスの春は遅い。

日本では温かくなる4月でも、フランスでは朝夕10℃ほどと冷える。

手足が冷えて全身の血のめぐりが悪くなるこの時期に毒を飲まされた場合、他の季節に比べ若干効きが悪いことをDaresoletは発見した。

 

毒殺の流行を完全に断ち切るのは難しいと彼は考え、被害を最小限に食い止めるために第一段階として1年のうち4月のみを毒殺を許可する月とした。この決定は当初反発を受けたが、最終的にフランス人に受け入れられることとなり、のちに「四月の毒/Poison d'Avril/ポワゾン・ダヴリル」と呼ばれることになる。

その後時代が変わると毒自体がより厳密に禁じられるようになった。

毒が人間の体を滅ぼし毒殺の流行が世界を破滅させる寸前まで行ったことを忘れぬように、物理的な毒のかわりに言葉の毒である「ウソ」をあえて口にすることで戒めとしたのがエイプリール・フールの始まりだ。

ウソをついてよいのは4月1日の午前中だけ。これは<真実を言うくちびるは、いつまでも保つ、偽りを言う舌は、ただ、まばたきの間だけである。>という教えに従ったものであろう。

こうしてさらに数百年たち、それがいつの間にか毒は不吉だということで「四月の魚/Poisson  d'Avril/ポワッソン・ダヴリル」と誤記されるようになった(『男が酒なら女はボトル/やっぱり嘘は罪』民明書房刊より)。

 

今となってはウソと誤解と魚と毒の関係を知る者はいなくなったが、そもそも上記の「四月の毒」やムッシュウ・ダレソレの話ももちろんウソなのはいうまでもない。

お互いに、毒にもウソにも気を付けたいものである。

 

皆様、良いエイプリル・フールを。

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3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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ジョブズをダシに経営者に検査入院を勧めてみる話(R)

スティーブ・ジョブズの話が道徳の教科書に載ると聞いて、2015年のものを再掲。

 

「大変です、あなたがいなくなったら会社は回りません。
スティーブ・ジョブズが亡くなったら、アップルでさえ怪しい雲行きですものね」
仕事があるから検査入院できない、とかたくなに拒否する経営者にぼくは言った。

おれはジョブズほどすごくない、尊敬するジョブズと一緒にするなんておこがましい、ジョブズが亡くなってもiPhoneは売れてるじゃないか、なんて反論されたらどうしよう。それからティム・クック、ごめんなさい。

 

「そりゃあ検査入院中は混乱するかもしれないけれど、一週間くらいなら誰かがその穴を埋めるから大丈夫です。
でもね、うちの病院の場合だって院長が突然倒れたら病院はつぶれてしまいます。
どこかから誰かが代わりの院長を連れてきて、穴を埋めるというわけにはいきません。
トップが突然倒れたら大変っていうのは、病院も会社も同じですよね」
かすかに彼がうなずく。

 

「トップがいなければ一瞬たりとも回らない仕事というのはあるんでしょうね。
でもね、だからといって無理してあなたが倒れたら社員はどうします?
あなたが検査入院でしばらくいなくてもなんとか仕事は回るけど、無理してあなたが病気でいなくなったら、会社であなたのかわりになる人は誰もいないんじゃないでしょうか。
社員とその家族、取引先にとって、あなたはかけがえのない存在なんです。
検査入院のための1週間を惜しんで、あとで倒れて社員やその家族、取引先を泣かせたら大変だから、そうなる前にきちんと検査入院して徹底的に調べませんか。
ビジネスも健康も、先手必勝、ゴーイング・コンサーンしないとね。
大きくつまづく前に素早く対応して、損失は最小限に抑えましょう」
ぼくがそう言うと、渋々とその経営者は検査入院に同意したのだった。

 

ヒマな経営者だったらこの手は使えないので、会社云々とたたみかける前にそっとぼくは彼の手の中のスマートフォンを一瞥しておいた。
彼のスマホは部下や取引先からであろう着信でひっきりなしに振動していたし、もちろんスマホiPhoneだった。

 

診療中は、スマホの電源切っておくことを強くお勧めする。

*完全フィクションです。念のため。
(FB2015年3月28日を再掲)

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ジョブズをダシにビジネスマンに検査入院を勧めてみる話(R)

「大丈夫、あなたがいなくても会社は回ります。スティーブ・ジョブズが亡くなっても、アップルはつぶれてません」
仕事があるから検査入院できない、とかたくなに拒否するビジネスマンにぼくは言った。
おれはジョブズよりもすごいんだ、ジョブズごときと一緒にしないで欲しいとか、ジョブズが生きてたら毎日充電が必要な腕時計なんて売らないはずだ、なんて反論されたらどうしよう。

 

「そりゃあ数日は混乱するかもしれないけれど、ちゃんと誰かがその穴を埋めるから大丈夫です。
私の場合だって私がいなくなってもこの病院はつぶれないんです。どこかから誰かが代わりのドクターを連れてきて、私の穴を埋めますからね。
自分がいなくなっても大丈夫っていうのは、男としてはちょっとさみしいですけれども」
かすかに彼がうなずく。

 

「究極的には自分がいなければ絶対に回らない仕事なんてないのかもしれませんね。
でもね、あなたが倒れたらご家族はどうします?
あなたが検査入院でしばらくいなくても仕事は回るけど、あなたが病気でいなくなったら、家庭であなたのかわりになる人は誰もいないんじゃないでしょうか。
家族にとって、あなたはかけがえのない存在なんです。仕事のために無理して倒れて家族を泣かせたら大変だから、そうなる前にきちんと検査入院して徹底的に調べませんか」
ぼくがそう言うと、渋々とそのビジネスマンは検査入院に同意したのだった。

 

独身だったらこの手は使えないので、家庭云々とたたみかける前にそっとぼくは彼の左手をチェックしておいた。
彼の左手には結婚指輪がはまっていたのはもちろんだし、手首にはアップルウォッチもついていなかった。

*実話を元にしたフィクションです。念のため。
(FB2015年3月26日を再掲)

↓ラジオはじめました。

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3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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北千住よみうりカルチャーで公開講座『認知症との上手な付き合い方~家族の心得~』開催しました!

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3月26日日曜日、北千住のよみうりカルチャーで公開講座認知症との上手な付き合い方~家族の心得~』開催しました!
たくさんの方にご参加いただき、さまざまなタイプの認知症について、家族としてどう支えていくべきかなどなどをお話しさせていただきました。

 

次回は夏か秋に開催予定です。

ご参加いただいた皆様、機会をいただいたよみうりカルチャー様、ほんとうにありがとうございます!

 

↓もの忘れと認知症の違いとは?

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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「運がいい人」とはどういう人か

世の中には、運がいい人、というのがいる。

普通なら思いもつかないような出会いに恵まれたり、懸賞や宝くじにもバンバン当たる。歩いていればお金も拾うし、たまたまカフェで隣りあった人から大きな仕事の話をもらったりもする。

生まれついてのラッキー・マンやラッキー・ウーマンである彼らは口を揃えてこういう。「いやー運が良かっただけだよ」。

 

運がいい人っているよな、ああうらやましい妬ましい、生まれ変わったら自分もそんな星のもとに、なんてグチるんじゃなく、「運がいい人」をしっかり研究した人がいる。

イギリスの心理学者、リチャード・ワイズマン博士である。

この人はもともとマジシャンで、マジックの裏に潜む人間心理の面白さに目覚めてロンドン大学エジンバラ大学で心理学の研究をし博士号をとった。

ワイズマン博士を一躍有名にしたのが、「運のいい人」の研究である。以下、博士の著書『運のいい人の法則』(角川文庫 H23年)をもとに述べる。

「運のいい人」には何か法則があるのではないか、と博士は考えた。

「運のいい人」の法則を調べるには、「運のいい人」をたくさん集めてきて共通点を探ったり、「運のいい人」グループと「運の悪い人」グループの差を集めたりすればよい。

だがしかし、そもそも「運のいい人」「運の悪い人」なんて非科学的な存在をどう扱えばいいのか。普通はそこで途方に暮れてしまうのだが、博士のやりかたはシンプルだった。単純に、「あなたは自分が幸運な人間と思うか不運な人間と思うか」でカテゴリー分けしたのである(詳しくは上掲書 p.45-46)。

だから厳密には、ワイズマン博士のいう「運のいい人」は「自分が幸運だと思う人」であり、「運が悪い人」は「自分が不運だと思う人」である。

研究にはとっかかりが必要だから、定義づけさえはっきりしておけばひとまずはそれでいいのだ。

 

次に博士は「運がいい人」は「運が悪い人」よりも予知能力みたいなものがあるのではないかと仮説を立て実証した。

イギリス全土の「運がいい人」と「運が悪い人」に、宝くじの当たり数字を予想してもらったのだ。実験に用いられた宝くじは1から49までの数字を6つ選んで当てるタイプのもので、もし「運がいい人」=予知能力がある人であるならば、全英「運のいい人」グループが選んだ数字は当たりやすいはずだ。

結果は見事に大外れ。「運のいい人」グループが選んだ数字も、「運が悪い人」グループが選んだ数字も、当選率は大差なかった。

「運がいい」とは予知能力ではなさそうだ。そう簡単にスーパーナチュラルなことは起こらない。

 

ワイズマン博士はいろんな実験をしている。

興味深い実験の一つが喫茶店で行われたものだ。

喫茶店の入り口の路上に5ポンド札を置き、店内のテーブルにはビジネスに成功した実業家役の人を仕込んでおく。隠しカメラも忍ばせて、「運がいい人」と「運が悪い人」をその喫茶店に呼んで、二人の行動を観察するのだ。

「運がいい人」代表のマーティンはその喫茶店に近づくなり入口に落ちている5ポンド札に気づいた。「ラッキー」とでも言わんばかりに5ポンド札を拾って店に入る。

マーティンはコーヒーを頼んで席につくと、何分もしないうちに隣の席の実業家(役の人)に話しかけて簡単な自己紹介をして、コーヒーをおごるよと申し出たのだ。二人はしばし会話を楽しんだ。

「運が悪い人」代表のブレンダの行動はまったく違った。

ブレンダはうつろな目をして喫茶店に入ってきた。路上に置かれた5ポンド札には気づかないままだった。

コーヒーを頼んで席についたブレンダは、誰とも話そうとはせずじっとワイズマン博士が来るのを待っているだけだった。

 

同じ数十分の間に、マーティンは5ポンドを拾い、成功した実業家と会話を楽しんだ。もしこれが実験ではなく実生活ならその実業家から大きな仕事のオファーが得られるかもしれない。

一方、ブレンダには何も起こらなかった。二人の差は何だろう?

「運のいい人」は目の前の5ポンド札に気づくが、「運の悪い人」は気づかない。
「運のいい人」は周囲にオープンだが、「運の悪い人」は自分の中に閉じこもる。

注意力と開放性は、「運のいい人」の特徴なのだ。

 

実際、「開放性」は大きなキーワードだ。

心理的傾向を調べると、「運のいい人」は外交的で、リラックスしており、オープンな傾向にあるという(p.59-109)。

 

考えてみると、「運がいい人」が外に対して開いているというのは論理的である。
「運」というのは自分の外からやってくる。自分の内側にあるものは実力だったり体力だったり、とにかく「運」ではない。

自分以外の外部要素で何かことが成し遂げられたとき、人はそれを「運」と呼ぶ。

だから外に対して開いている人には「運」が舞い込むし、閉じている人には「運」はやってこない。

ワイズマン博士の研究でも、「運がいい人」(厳密には自分が幸運の持ち主と思っている人、だが)は友人・知人のネットワークが広いという。

友人・知人のネットワークが広ければ、それだけ「いい話」が転がりこむ可能性が高いわけだ。

 

少しだけ脱線すると、この話は人間性についてちょっとした希望を抱かせる。

もし人間が邪悪な存在ならば、他者とつながっていればいるほどマイナスな出来事が転がりこむだろう。しかし他者とのつながりが多い人ほど「運がいい」となると、他者がもたらすものはマイナスよりプラスが多いということになるはずだ。
つまり、総じて人間というものはよいものだ、ということにならないだろうか。
まあマイナスばかりもたらす人もいますけどね。

ワイズマン博士は最終的に、「運のいい人の法則」として下記の4つを挙げた。

 法則1.チャンスを最大限に広げる

 法則2.虫の知らせを聞き逃さない

 法則3.幸運を期待する

 法則4.不運を幸運に変える

法則1は初めのほうに述べたように、外からやってくる「運」に対しオープンであるということや、目の前にあるチャンスを見逃さない、試行錯誤する、などのことだ。

調査の中で出会った「宝くじや懸賞に何度も当たっている」人は、単に他人の何十倍も懸賞に応募しているだけのことだったという。試行回数の問題なのだ。
法則2は、勘や虫の知らせというのは成功パターン・失敗パターンを意識下で認識(語義矛盾だが)している表れだから無視するな、みたいな話である。

法則3は、「運のいい人」ほど粘り強く物事に取り組むということで、自分は幸運だからきっとうまく行く、という信念がその源泉だという。

法則4は、悪い出来事からも何か教訓を得ようという姿勢が大事みたいな話。

 

ワイズマン博士の「運のいい人の法則」では一切超自然的な話は出てこない。非常に合理的かつ論理的で、そういうのが好きな人にはお勧めです。

 

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