ある仏教研究者は言う。
「私の考えでは、どんな世の中であっても、どんなちっぽけな存在であっても、“にもかかわらず”、人はnoble life、気高く生きていくことができる、ということこそが救いなのです」と。
死生学者は言う。
<死にゆく人々にとって、ユーモアこそが大事なのです。ユーモアとは、たとえつらい状況にあっても、“にもかかわらず”笑う、ということです>と(1)。
社会学者は言う。
<たとえ報われないとしても、どんな事態に直面しても、“にもかかわらず”やるんだ、と言い切る人間こそが、真の政治家たる者だ>と(2)。
これらの、“にもかかわらず”の哲学の根底に流れるものは何か。
それは、魂の不可侵性の高らかなる宣言である。
どんなに悲惨な状況であっても、どんなにわが身が打ちひしがれていても、決して自分の内面だけは運命の自由にはさせない。
自分の内面だけは気高く、楽しげに、思うままに保つ。
そのことこそが、“にもかかわらず”の精神である。
月曜日に絞首台に引かれていく罪人が言う。
「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」。
フロイトはユーモアの一例としてこの罪人の言葉を挙げ、こう述べる。
<(略)自我は現実の側からの誘因によって自らを傷つけられること、苦悩を押し付けられることを拒み、外界からの傷(トラウマ)を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示するのである。>
<ユーモアの中に含まれているのは諦めではなくして反抗である。>(3)
どんな状況、どんな環境にも、己の内面だけは決して傷つけさせない。すなわち、肉体は傷つこうとも、魂だけは運命に負けない、という反抗の精神こそが“にもかかわらず”の哲学に通底するものなのだ。
キューバの老漁師サンチャゴは言う。
<「けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ」とかれは声に出していった、「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」>(4)
どうしたらぼくらはこの“にもかかわらず”の哲学、運命に対する反抗の精神を身に着けることができるのだろうか。今はまだその方法はわからない。
過酷な運命に抗い、せめて内面だけでも気高く生きる方法、たとえ月曜日に絞首台に引かれる状況に陥ったとしても「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と鼻で笑う強さ、そしてなによりも、月曜日に絞首台に引かれる状況に陥らずに済む方法について、今週末、じっくりと考えてみたい。
1)アルフォンス・デーケン『よく生き よく笑い よき死と出会う』 新潮社 2003年 p.199
2)マックス・ヴェーバー「職業としての政治」岩波文庫 1980年 p.106
3) フロイト「フロイト著作集3 文化・芸術論」人文書院 1969年 p.406-408
4) ヘミングウェイ「老人と海」新潮文庫 昭和41年 p.118
(FB2013年4月2日を再掲)
『3分診療時代の長生きできる受診のコツ45』