自転車置き場と賭け麻雀

世を渡っているとよく自転車置き場の屋根にぶつかる。
正確に言うと、自転車置き場の屋根の議論にぶつかるのだが。

 

自転車置き場の議論は英語だと「bikeshed discussion」という。平たく言うと、瑣末なことほど議論が紛糾する現象だ。
たとえば原子力発電所をどこに作るべきか、みたいな話だと、問題の理解に手間や時間がかかるため、当事者以外は何も言わない。きちんと議論するためには原子力発電が残念ながら近代生活の必要悪であることや、原子力発電の原理、発電所に必要な地形、もろもろの規制などなどをよく咀嚼して自分なりの意見を形成しなければならない。みんな自分の生活で忙しいからそこまで手間暇かけられず、本来なら国民全体に大きな影響を与えるはずの大きい問題なのに「よくわからないから専門家にお任せ」となる。

 

それに対し、市役所の自転車置き場の屋根を何色に塗るべきかという話だと、いきなり議論が紛糾する。理解やイメージがしやすいからだ。
国民生活に与える影響ははるかに小さいのに、身近な話ほど議論が盛り上がり、なかなか決められない。
(書いていて気づいたが、この原子力発電所と自転車置き場の例は不完全なところがある。原子力発電所が自分の家の近くに計画されれば議論は紛糾するだろうし、自転車置き場の屋根の話が自分に関係ない市の話なら誰も関心を持たないだろう。それはともかく)

 

検察が政権の顔色をうかがうような仕組みになってしまっているのではないかという構造的に大きく、国民生活に与える影響が大きい問題はあまり皆の関心を引かず、外出自粛要請下での賭け麻雀というわかりやすい話のほうが世論が紛糾しやすい、というのもやはりbikeshed discussionのように見える。

 

なぜ検察が政権に忖度するのが国民生活に影響を与えうるかというと、功利主義的にいえば個々人の生活の予測不可能性を高めるからだ。国家や社会や契約や法というのは、これまた功利主義的にいえば、個々人の人生の予測不可能性を低め、生存コストとリスクを低める安全装置である。
こういうことをすると捕まるとか、こういうことをすれば起訴されるとかの基準が曖昧で恣意的になると、人生の予測不可能性が高まってしまうのだ。もちろん誰も捕まるつもりで生きているわけではないが、この予測不可能性を低減するというのは他者に対しても適用されるわけで、取り引き相手やライバルなどにも一律で法が適用されるからこそ、他者に過剰に警戒せずに国民が生活を送れるわけだ。

 

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こういう話をすると、いや俺は予測可能な人生なんてまっぴらだ、生存リスクやコストは高いほうが面白い、他者に対しピリピリと警戒してスリリングにやっていきたいなんておっしゃる方が必ずいるが、そうした方々には、賭け麻雀をお勧めする。デカピンでポン。

 

 

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