パッケージに惚れて購入したカルピスウオーターを飲み干して、光にかざしながらボトルをみつめていた。ボトルには、波打ち際に遊ぶ制服姿の高校生の姿。頭の中にはヨルシカ『ただ君に晴れ』が鳴る。海辺の町の青春、って感じだ。
ところがそこである疑問が湧き上がる。
「海辺の町の高校生というのは、本当に制服姿で波打ち際で遊ぶのだろうか?」
那覇の子は、ビーチパーティはするけど他県の者が思うほど海で泳がない、と聞いたことがある。
東京の人が東京タワーのぼってばかりというわけでもあるまい。
野生動物みたことないナイロビの子もいるだろう。
海辺の町の高校生だからといって、制服姿で波打ち際で遊ぶものだろうか?
制服が塩水で汚れたら厄介だし、海辺の町は湿気が多いから部屋に吊るしておいたスーツがカビたりするんだよなあ。海辺の町のクリーニング屋もそこらへんの処理は慣れてたりするよなあ。
話はバリ島に変わる。
クタビーチ近くの通りをフラフラと歩いていた。
好奇心からあちこちの店を冷やかしているうちに、どこかの店の二階に迷いこんで、思わぬ光景に出くわした。ゲームセンターだ。
薄暗い部屋の中、たくさんのゲーム機と、それに照らされる無数のバリ人の子の顔。無表情で、ゲームに没頭している。
そりゃあ神秘の島バリにだってゲームセンターくらいあるし今どきバリ人の子だってゲームに夢中だろうって話なんだけど、その時以来、ぼくは幻想を他人に押し付けるのはやめようと思っている。
他人に幻想を押し付けたり、他人をステレオタイプで判断したりするのは楽だ。
記号で他人を判断すれば情報処理量が少なくて済むから脳みそへの負荷を減らせるし、「男ってそんなもん」とか「女ってそんなもん」とか「〇〇人はこう」とか「××人はこう」とか言っていれば訳知りに見える。
だが人間は多面体で、角度を変えると別の面を見せたりする。
幻想やステレオタイプから自由になって個々と向き合い付き合ううちに、はじめは隠されているけれど、だんだんと奥の面が現れて全体像が見えるはずだ。
そう、カルピスウォーターのボトルのようにね。