現代社会において、いわゆる「頭の良さ」とはメタ認知である。
たくさんの知識を持っているということは素晴らしい。だが、インターネットと知の結合により、知識そのものを持っていることの相対的価値は下がっている。自分自身で知識を持つことの大事さはいくら強調しても強調し過ぎることはないが、それでも昔のように「あの人は“歩く辞典”だ」のような褒め方はしなくなった。
メタ認知とは1970年代に発達心理学者のジョン・フレイヴェルが使い始めた概念だという(三宮真智子『メタ認知で〈学ぶ力〉を高める』北大路書房 2018年 p.15)。
上掲書によれば、メタ認知的知識は、
〈①人間の認知特性についての知識
②課題についての知識
③課題解決の方略についての知識〉だという(p.16)。
たとえば①は、「人間は感情的になると間違えやすい」とか「人間は慌てると失敗する」などの、人間の特性についての知識だ。
これには他者の特性も含まれる。「チームの誰々さんはこんなことを知っている」とか、「自分がいま話している相手は、いま取り組んでいる課題についてこれくらい理解している」などなど。
②は、課題そのものについての知識である。
課題の本質がなんであるか、課題はどんなことをどの程度まで要求しているのかなどの知識や認識が十分であれば、クレバーにスマートに課題に取り組める。課題そのものへの知識認識が不十分であれば、その逆だ。
③は、課題に取り組むためにはどのような方法があるかの知識認識である。
ただし気をつけないといけないのは、〈(略)、人間の認知特性についての知識および課題についての知識をもっていてこそ、課題解決の方略についての知識が活かされるという点(略)〉(p.18)だ。
『人間を知る』『ものごとの本質は何か』が無ければ、全ては小手先の浅薄なハウツーに堕す。
自分という人間がどのような特性を持つのか、自分は何をどこまで知っているのか、相手は何をどこまで知っているのか、いまの課題は何か、課題は何をどこまで要求しているのか、その要求を満たすためにはどんな方法があるのか。
そんなメタ認知を働かせることが現代社会では求められるのである。
現代社会において「頭の良さ」とはメタ認知という話をしている。
自分が何をどれだけ知っているか、話している相手は何をどこまで知っているか、そのギャップを埋めるにはどのような言葉をどれだけ駆使すればよいか。いまの課題は何か、その本質とは何か、課題が解決されるには何がどこまで要求されているか。そんな知識や認識に関する俯瞰的な認知であるメタ認知の高い者こそが、現代社会では「頭が良い」とされるのだろう。
だがメタ認知にも落とし穴はある。
メタ認知の一部は、いわゆる「空気を読む」能力だ。その場の状況を把握し、展開されている人間関係を踏まえて行動する。空気を読む能力もまたメタ認知の一部だろう。
この「空気を読む」能力が行き過ぎると、過剰適応を起こす。あるいは現状追認的になる。
メタ認知の高い人間、頭の良い人間というのは、往々にして目の前の事象になんらかの理由づけをするのが得意だ。「〇〇が今の状況になったのには理由があって、それは××」とスマートに説明できてしまう。
だがそれはかなりの確率で、「だから仕方がない」という結論に結びついてしまうのだ。
しかしながら、現代社会においても不合理、不条理な出来事、差別や格差という社会問題は山ほどある。
そうした是正すべき問題に対しアクションを取るために、メタ認知能力が高すぎると勝手に合理化してかえって問題発見のセンサーが鈍ったり、問題解決のモチベーションが下がったりはしないだろうか。
だから、メタ認知能力を発揮する場合には、自分が過度にメタ認知能力を発揮しすぎてないかをさらにメタ認知する、いわばメタメタ認知が必要になる。しかしながら、これ以上考えるとキリがないのでここらへんで「公開」ボタンを押すことにする。