〈人生の最後にもう一度「青春」が来る〉らしい。

〈四十歳から五十歳までの十年間は、情熱ある人びとにとって、芸術家にとって、常に危機的な十年であり、生活と自分自身とに折り合いをつけることが往々にして困難な不安の時期であり、たびかさなる不満が生じてくる時期なのだ。しかし、それから落着いた時期がやってくる。(略)興奮と闘いの時代であった青春が美しいと同じように、老いること、成熟することも、その美しさと幸せをもっているのだ。〉(ヘルマン・ヘッセが息子ブルーノに宛てた手紙より。ヘルマン・ヘッセ『老年の価値』朝日出版社 二〇〇八年 p.61)
 
おかげさまで50歳になりました。
バスケ部の夏合宿で「明日雨が降れば朝練なくなるのに…」と思いながら天気予報を見ていた頃から35年近く経ったかと思うとショックですが、こういうのを「老いるショック」というのでしょう。みうらじゅん命名。
 しばらく前から方向性を見失ってしまい、手探り中ですが、その中でいくつかの言葉に出会いました。
その一つが、〈人生の最後にもう一度「青春」が来る〉(大塚寿『50歳からは、「これ」しかやらない』PHP研究所 2021年 p.36)。
多くの人が会社を定年したりする60代に、もう一回青春がくるというのです。
 
「20歳だった。それがひとの人生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」というほどひどい青春ではなかったけれど清涼飲料水のCMとは程遠い青春で、ふてくされてばかりの10代を過ぎ分別もついて歳をとり夢から夢へといつも醒めぬまま未来の世界へ駆けていったら50歳になっていた身としては「人生の最後にもう一度『青春』が来る」、というのは救いです。
なにしろ今度の青春は、準備ができる。
 
さて、実は50歳を前に

人生迷子になってしまっておりました。

一言で言えば、「枯渇」。こうしたい!とかこうあるべきだ!みたいな湧き上がるものが無くなってしまったのです。

仕事ももちろんちゃんとやるけれど、何かそれに加えて、いや加えてというか生活や人生をドライブさせるような腹の底からの衝動みたいなものが枯れてしまっていた。ただ淡々と日々をこなす感じとでも言いましょうか。

まあ昔は人間五十年なんていっていたくらいだし、ほっとけば生のエネルギーなんてものは50年くらいで枯渇するものなのかもしれません。このまま凪のような心持ちで過ごしていくのかなあと思いつつ、少し足掻いてみました。

 

ぼくのネタ本の一つ、デビッド・アレンの『はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』の教えに、「人間のアタマはタスクの重要性を区別しない。つまらないタスクやささいなタスクも人生の重大事も同じように扱う。つまらないタスクやささいなタスクをそのままにしておくと、アタマのキャパがそちらに取られるので、重大なタスクにアタマが回らない」というものがあります(「脳」というワードはぼくにとって正確に扱うべきテクニカルタームなので「アタマ」という日常生活用語を使っています)。

 

アレンのこの仮説はなかなかに示唆的です。

このアレンの仮説を思い出して、「生のエネルギーが枯渇してきたのは日常の些事にアタマのキャパを奪われているからではないか」と考えました。

アレンが勧めているのは「やらなきゃいけないこと、気になってることを紙に書き出せ。書き出したらそれを上から順にこなせ」という方法です。

で、やってみた。

日常生活上で気になっていること、やらなきゃいけないと思っていること、なんとなくやだなと感じていることを書き出してみました。

自分で驚いたんですが、なんとそうした些事や心わずらわされていることが合計58個ありました(本当)。

 

ぼくは自分自身を基本的に大雑把な性格と自認しているのですが、それでも58個も心わずらわされてることがあったのです。そりゃ心も動かんわ。

 

備忘録として、やり方はこう。

一日の流れを朝から思い浮かべます。

朝起きてヒゲを剃る。「シェービングクリームが切れてるんだよな。ここのところ毎朝『買わなきゃ』と思ってるよな」と思い至る。これで1個。

家を出るシーンを思い浮かべる。

「靴がくたびれてるんだよな。『そのうち買わなきゃ』って何ヶ月も前から思ってるよな」。これで2個。

朝から晩までの流れを回想して些事をピックアップしたら、今度は月曜から日曜までの流れを回想します。

すると「毎週◯曜日のあの検査の時、検査依頼書の文言書くのがちょっと手間なんだよな。いつも『簡略化できないか』と思うけどそのままなんだよな」と思い出す。

一週間の流れを振り返ったあとは一ヶ月の流れを反芻します。

今度は「月末の支払いの振り込み、毎月毎月ちょい面倒なんだよな」と思い至ります。

一ヶ月の流れを振り返ったら今度は一年。

そうやって、気になること、やらなきゃいけないと思ってること、心煩わされていることを全部書き出したら、58個ありました。むしろ少ない方かもしれません。

 

唐突ですが、四書五経の一つ易経には、陰と陽の考えかたがあります。

陽は発展とか成長とか拡散とかの力の方向性。植物でいえば、根から幹、幹から枝、枝から葉へと流れる、外へ外へと伸びてゆく力の流れです。

陰は集中とか成熟とか集約とかの方向性で、植物でいえば、葉を落とし枝を落として、幹へ根へとエネルギーを絞り込んでゆく力の流れですね。

超自然的な占いとかとは距離を置きますが、この易経の陰陽の考えかたは非常に興味深い。

 

我がことに当てはめると、外へ外へ、上へ上へという陽のエネルギーが枯渇した状態がここ最近だったといえます。

で、今回実感したのですが、陽のエネルギーが枯渇しているときには、陰の方向で対処すればよいようです。

心のエネルギーを知らず知らずに奪っている58個の些細なこと、気になっていること、心煩わされていることを書き出して、一個いっこ対処しました。

 

「対処するために必要な手間ひま」を横軸に、「対処した場合に気が楽になる程度や効果持続期間」を縦軸に4象限の図に落としこんで、「比較的あっさりできること」かつ「対処した場合に持続期間の長いこと」から優先的に手をつけてみました。

 

たとえば「家の鍵の変形」。

家の鍵の持ち手の部分が変形していて毎朝毎晩気になっていたのです。これも業者に依頼したらあっという間に解決しました。もっと早く頼めばよかった。

あるいは仕事場の家賃振り込み。月末振り込みの契約なんだけど、支払いタイミングをコントローラブルにしておきたいという心理からか、今まで毎月自分で振り込んでました。毎月月末になると「そろそろ家賃振り込まなきゃ」と気にしてたので、これも(ようやく)口座引き落としにしました。

 

面白いことに、リストアップした58個のうち5〜10個対処した時点でちょっと元気になりました。

おそらく、些細だけど気になること、心煩わされることを放置すると自己肯定感が下がるんじゃないかな。無意識のうちに「こんな些細なこともできないのか」と無力感が湧いてきちゃうのかもしれない。

そこで瑣末なことでもいくつか対処するうちに自分のことを「やればできる子」と認識するのではないでしょうか。

ここまでのところをまとめると、生のエネルギーを芽生えさせ育てるために、心の表面に繁茂していた雑草のような瑣末な事柄を一つ一つ抜いてまず土地を作ったというところですね。

 

昨日も使わなくなって放置していたクレジットカードをようやく解約しました。

銀行の休眠口座も整理しなきゃ…。

(続く)