利他と利己ー「生まれながらに人を憎まず」オバマ氏Twitterツイートに思う。

www.cnn.co.jp

<「生まれた時から肌の色や出自や宗教を理由に他人を憎む人などいない。憎しみは学ぶものだ。そして、もし憎しみを学べるのなら、愛することも教えられるだろう。なぜなら人間にとって、憎しみよりも愛の方がずっと自然なのだから」>

8月12日にオバマ前大統領がツイッターに投稿したそんな文章が、世界中で共感を呼んでいるという(CNN.co.jp 8月16日記事)。

 

人間が生まれながらに持っている性質が善か悪か、人間というものは利他的な存在なのか利己的な存在なのかは古来より論争の的であった。

聖書は「汝の敵を愛せ」と教える。

古代ギリシャの哲人は<(略)人間も親切をするように生まれついているのであるから、なにか親切なことをしたときや、その他公益のために人と協力した場合には、彼の創られた目的を果たしたのであり、自己の本分を全うしたのである。>(マルクス・アウレーリウス『自省録』岩波文庫 kindle版 2420/6243)と言う。

孟子は、人間にはもともと「人に忍びざるの心」=人の不幸を見逃せない心が備わっていて、その証拠に小さな子どもが井戸に落ちようとしているのを見たら誰だって心が痛むではないかと説く(吉田松陰『講孟劄記(上)』講談社学術文庫 昭和54年 p141-142)。

 

人間のもともとの性質を考える思考実験として文学作品を挙げることもできる。

まだ社会慣れしていない子どもたちを未開の地・無人島に放り出したらどうなるかを想定して、互いに協力して理性的に行動するはずだと説いたのがジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』(原題は『二年間の休暇』)だ。それに対し、いやいやそうではない、良識や規則のないまま少年たちをほうっておいたら野性や獣性が暴走して相当ひどいことになると書いたのがウィリアム・ゴールディング『蠅の王』だ。

こうした性善説性悪説の二項対立に異を唱える立場もある。

とある作家はエッセイの中で、自分は性善説性悪説も取らない。自分が採用するのは「性悪(しょうわる)説」だ、と述べた(と思うが原典が見つからない。たぶん遠藤周作氏のエッセイだったように思うが、ご存じのかたお教えください)。
「性悪(しょうわる)説」というのは、人間は生まれながらに性悪(しょうわる)で、人に意地悪したり妬んだりひがんだりするが、悪魔というほどは悪くなく、環境によってよくも悪くもなる、という考え方である。
環境によって人は良くも悪くもなるという考え方は古代中国にもあり、礼儀作法で人間の行動を良くしようというのが礼家、法律によって人間を縛ってやろうというのが法家の立場であろう。

 

環境によって人間は天使にも悪魔にもなる、ただ基本的には人間というのは「性悪(しょうわる)」なものだという「性悪(しょうわる)説」は大変現実的に思われる。
置かれた環境によって人はどこまでも暴走し、信じられないほど残酷にもなり得る、というのはスタンフォード監獄実験やミルグラム実験が教えてくれる。環境が人を極限まで残酷にし得る例として、近年の事例ではアブグレイブ刑務所での捕虜虐待事件を挙げることもできる。

環境が人を狂わせるのか、あるいはもともとの獣性を解き放つのかはわからないが、変な環境には近づかないのが吉である。

人間のもともとの性質が善いものか悪いものか、なんの制約もない状態で人間という生き物は利他的に振る舞うのか利己的に振る舞うのか、ということについて、自然科学的アプローチではやや楽観的な立場が多い。
動物学者フランス・ドゥ・ヴァールは、ボノボチンパンジーなど霊長類の観察を通じて、人間性への洞察を深めた。

ドゥ・ヴァールによると、ボノボよりチンパンジーのほうがより攻撃的であり、ボノボは平和を愛し、互いに慈しみあう行動がよくみられる動物であるという(『道徳性の起原』紀伊国屋書店 2014年 p.85-86など)。幸いなことに、我々人間はボノボのほうにより近いそうだ。

 

ほかの動物でも利他的な行動は広くみられる。

上掲のドゥ・ヴァール『道徳性の起原』では、立てなくなった象エレノアを助けようとするほかの象グレイスの例が描かれている(p.41)。立てなくなったエレノアが絶命したとき、エレノアは涙を流し悲しんだという。

ネズミの一種、ラットですら利他的行動を示す。

関西大学のグループが2015年にAnimal Cognition誌に寄稿した論文"Rats demonstrate helping behavior toward a soaked conspecific”によれば、ラットは水に浸かった仲間を助けるためにドアを開けるという行動をすぐに学び、興味深いことにエサを得るためのドアを開ける前に仲間を助けることすらするという。

ぼくは自然科学に親しんだ者の一人として、性善説に従い、生涯にわたって利他的な行動をとり続けることをここに誓う。
マルクス・アウレーリウスも言うではないか、<善い人間のあり方如何について論じるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ>(『自省録』kindle版 2567/6243)。

 

しかし困ったことに利他と利己について、最近また別の研究が出てきた。
科学雑誌『Nature Human Behaviour』に出たletter”Prosocial apathy for helping others when effort is required”によると、人間は、自分が損する場合には他者に益を与えるような利利他的行動はあんまりとりたがらないイキモノだという。

http://www.nature.com/articles/s41562-017-0131#author-information

 

この研究の、「人間は自分が損して他者に利益を与える行動をとりたがらない」という結論は、先ほど生涯にわたって利他的行動をとり続けると誓ったばかりのぼくには到底受け入れがたい。人間というものは、自分が損しても他者に利益を与える生き物のはずなのだ。

もっとも、この研究論文、有料なので本文は読んでいない。なにしろ本文を読むためには20ドルかかる。自分が20ドル損してNature誌に利益を与えるなんて、とてもじゃないが耐えがたいことではないだろうか。
(facebook 2017年7月4日を大幅加筆)

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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竹富島で会いましょう(R改)

沖縄病、というそうだ。

沖縄を訪れた者はみな、心の一部を沖縄に置いてきてしまう。

そのなかには沖縄に恋し焦がれて、とうとう沖縄に移り住む者もいる。

思い出すのは、いつか見た石垣島竹富島

 

亜熱帯の、濃い緑の中、白い一本の道がまっすぐに続く。

空には巨大な入道雲。

借りた自転車に乗って、誰も来ない道をゆっくりとゆく。

 

カラカラと車輪の音、時々風。それ以外は何の音もしない。

無音。

ただひたすらに自転車をこぐ。

 

むこうから、赤銅色に日焼けした小柄な老人が黒い水牛を連れてのんびりと歩いてくる。

言葉もなく通り過ぎる。

たぶんこの先、二度と会うこともない。

 

浜辺に着き、しばし佇む。

砂浜、遠浅の海、太陽。

いったい、これ以上何が人間に必要だというのだろう。

あと必要なのは、ビールかな?

 

遠くで雷鳴が聞こえる。

南の島に激しく短い雨が降る。

やがて雨も上がり、夕方の強い日差しが樹々に力を与える。

天空には虹がかかり、ぼくは船に乗るため港を目指す。

 

民宿に戻ると、誰かが爪弾く三線の音が聞こえてくる。

もうすぐ星も出るだろう。

心地良い疲れの中

ぼくは眠りに落ちた。

 
(hirokatz.tdiary 2003年7月30日を加筆再掲)

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人生のカベにぶつかり、まわり道することになった人へ。

「このまま働き続けたら家庭も身体も壊れてしまう。クビになってもいいから、このままの仕事の仕方はムリ、と上司に言おうと思う。

今までストレートでここまで来たけど、寄り道しても回り道しても自分の人生を優先させなきゃならない」

内容は少しぼかしてあるけど、そんな悲壮な決意のつぶやきを、あるときtwitterで見かけた。

 

「stop to smell roses, 道ばたのバラの香りをかぐために立ち止まれる、そんな人生をぼくは送りたいね」

知人のオーストラリア人が昔そんなことを言っていた。

無精ひげに襟元のよれよれのTシャツのくせに、なかなかいいことを言うと感心してからもう何年も経つ。

 

もし人生が旅ならば、最終目的地は、死だ。であるならば、あんまりストレートに旅路を急ぎ過ぎるのも考えものだ。

寄り道、まわり道に右往左往に一進一退、あっちでバラの香りをかぎ、壁にぶつかっては立ち止まって来し方行く末を考えたりしてせいぜい旅路を愉しみながらやっていくしかないんだろうとも思う。

 

実際、生きていればなんとかなることも多い。

そのときはまわり道に見えてもあとから考えるとあれが役に立ったなんて気づくことはざらにあるものだ。

スティーブ・ジョブズが大学の授業をドロップアウトしてからのめり込んだのが美しく文字を書く学問・カリグラフィで、その時にはまったく役に立たなかった美しい文字を書くというアイディアと技術が、10年後にマッキントッシュの字体を美しいものにしたのは有名な話だ。

いくらまわり道、寄り道をしたって生きていればなんとかなる、そんなことを古人たちは口ぐちに語っている。

古来ローマ人曰く、<生きているかぎり私は希望をいだく. dum spiro spero.>(柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』岩波文庫 2003年 p.104)。レバノンには<死んでないやつには、まだチャンスがある>ということわざがある(曽野綾子『アラブの格言』新潮新書 2003年 p.61)。

 

大学受験に失敗して浪人が決まったときに、同じく浪人が決まった友人Tが、水道橋の坂道を下りながら言った。

「現役で受かった奴らより1年長生きすればいいんだ!」。


それ以来、ぼくは人生でうまく行かないことがあるたびに、まわり道した分だけ他人より長生きして帳尻をあわすことにしている。
今のところ平均寿命より7~8年長生きすれば元は取れる計算で、最近では周囲からも「お前は長生きするよ」と言ってもらえるようになった。

 

なにかにつまづいてうまく行かないとき、人生でまわり道をすることが決まったとき、まだ見ぬ友よ、どうか絶望しないでほしい。
肩の力を抜き、お茶でも入れて、「そのぶんひとより長生きすればいっか」とつぶやいてみてほしい。

そう思う人が増えれば増えるほど、過剰な緊張に満ち満ちた日本社会ももう少しリラックスしてイージーゴーイングな生きやすい世の中になるんじゃないだろうか。

友人Tの提唱した「うまく行かないときはそのぶん長生きすればいい」というアイディアはぼくのまわりでも少しずつ広がっている。このアイディアがこのままどんどん広がって、みんながそんなスタンスで人生を送れるようになったら、どんな社会が生まれるか想像してみてほしい。

……そうだな、きっと、日本の平均寿命がますます伸びるのは間違いないな。
(FB 2017年8月7日を加筆)

 ↓そんなあなたの長生きのために!

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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夢十一夜(R)

 こんな夢を見た。

眼の前には白いテェブルが広がっていて、

その上には何千という皿が載っている。

皿の上には古今東西の豪奢な料理がそれぞれ載っている。

テェブルは無限に伸びていて、その両端は闇へと消えている。

わたしは片端から料理を口に入れるのだが、空腹感はいっこうに消えようとはしない。

腹がくちくなるどころか、食べれば食べるほど、いっそう満ち足りぬ思いに捉われる。

いつから食べ始めたのか分からぬまま、

わたしは永遠の咀嚼を続ける。

_ それから

どれだけの時間が流れたのかわからない。

未だに空腹も食欲も消え去らぬのだが、さすがにあごが疲労した。

料理を口に運ぶその手を止め、小休止を取ろうとした。

「飢えは癒えたのかい」

闇の奥から声がして、そうかわたしは飢えていたのかと思い至った。

_ 「いいや

まだだ」

声の主はわからぬままだったがそう応えてみる。

「おまえはあの頃からずっと飢えたままだね」

闇の声が言う。

「あれは、天保の頃だったね」

そうだ、あれは確か天保七年丙申の年だった。

言われてみて、そう思い出す。

腹の中に、どこまでも深く底の見えない、暗黒の飢えが広がっていった。

_ そうだあれは

天保の頃だった。

村々は何年にも渡って飢えに苦しんでいた。

赤子は乳を求めて声なき泣き声をあげ、

老いたる者は静かに死んでいった。

後の世には悪天候による凶作が飢えの源と伝えられているが、

実際はそうではない。

たった一羽の鳥が、全ての災いをもたらしたのである。

_ それは

ほんとうに大きな鳥であった。

時の将軍、徳川鮒吉が酉年生まれであったため、

村人たちはその鳥を傷つけることを禁じられていた。

そのためその鳥は増長し、村の畑のヒエやアワ、あろうことか稲まで食い荒らし、

三年にも渡る食い放題の暮らしにより、身の丈九尺にもなろうかとしていた。

_ 「もうあの鳥を

殺るしかねえだ」

作物を食い荒らされ、追い詰められた村人たちは夜な夜な寄り合いでそう話しあった。

「あの大きな鳥がいる限り、どんなに稲やアワを作ってもわしらの口には一粒も入らん」

村長がそう言う。

疲れ果て、絶望に打ちひしがれた村の者たちが無言でうなづく。

囲炉裏の火が、いくつもの顔を照らす。

誰も口を開かない。

ぱちり。

火がはぜる。

「………だが、誰がやる?」

_ 将軍鮒吉の命により、

鳥を殺せば打ち首獄門は免れない。

酉年生まれの鳥公方と陰口を皆叩きはするものの、

将軍に逆らえる者などいるわけがない。

無言。

「………わしが殺る」

今から百数十年前、

わたしはそう答えた。

_ 月の無い夜だった。

隣組の弥七とともに、わたしは村はずれの野原へとむかった。

手には鎌、これであの鳥の、首根っこを掻き切る。

がさり。

足元で草が音を立てる。

_ 鳥は

草叢で、その巨大な体を休めていた。

おのが羽の下にその頭を突っ込み、低い寝息を立てていた。

静かに鳥に近寄り、狙いを定める。

一息だ、一息で殺る。

鎌を振り上げ、大鳥の首根をめがけて一気に振り下ろした。

_ コケーッッッ。

闇を切り裂く、甲高い断末魔。

大鳥の首から真っ赤な血が吹き出す。

大鳥は、首を失ったまま目暗滅法に走り出し、

野原を赤く染め、やがて倒れこんだ。

_ 大鳥が

殺された知らせは江戸に届き、わたしは打ち首獄門となった。

村に飢えをもたらした大鳥はこの世から姿を消し、

伝え聞くところによるとその肉は密かに村人たちに振舞われたという。

大鳥によってもたらされた飢えは、

大鳥によって癒された。

だがしかし、わたしは飢えから解き放たれることなくこの世から去り、

永遠に孤独と空腹に苛まれている。

_ 「おまえは

村人たちを救った、英雄というわけだね」

追憶から我にかえったわたしに、闇の声がいう。

ああそうだ、わたしは英雄なのだ。

「だがおまえの名は、誰にも伝えられることはなかった」

そうだ、わたしの存在は

何千何万という飢えに苦しみ死んで行った者たちの間に埋もれていったのだ。

「おまえを苦しめ、死に至らしめた者の名もまた、

歴史に刻まれることはなかった」

ああそうだ、彼らもまた、

暴虐と理不尽に満ちた人類の歴史の中では

注目に値しない平凡なものなのだから。

_ 「だがあの

大きな鳥だけは歴史に名を残した」

そうだ、全くその通りだ。

わたしは闇の声にむかってうなづき、こう応える。

_ 声よ、

何者かも知れぬ闇の声よ。

おまえも歴史の教科書で見たことがあるだろう。

首を切り落とされ、闇雲に走り回る巨大な鳥、

まわりで逃げまわる村人たちの恐怖の顔。

あの巨大な鳥、貪欲で獰猛で、傍若無人なあの大きなニワトリこそが

後の世にいう

天保の大チキンだったのだよ。
(hirokatz.tdiary 2004年1月12日を再掲)

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

 

情報戦としての稲田朋美防衛大臣辞任劇~ぼくのかんがえたさいきょうのじょうほうそうさじゅつ

稲田朋美辞任現象に注目している。

官僚組織と政治家がどう「つきあって」いるのか、部外者からも垣間見える瞬間であり、一種の情報戦としてみるとたいへん興味深いからだ。

週末なので陰謀論と妄想にふけるのをお許しいただきたい。平日は真面目にやりますんで。

 

稲田氏にとってケチのつきはじめはアジア安全保障会議での「グッドルッキング」発言。国際的な場で、女性差別的ととられるリスクのある発言が出てきたのはなぜか。その場のアドリブでなければ原稿があるわけで、原稿のチェックの段階でスルーされたのは、誰かのなんらかの意図があったのではないだろうか、と先日考えた。

 

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 で、そう考えると、ずいぶんスピーディに「グッドルッキング」発言は国内報道されたなあと思う。まったく根拠はなく陰謀論だが、担当者が積極的に「発言が問題視された」というニュースを懇意の記者に情報提供したのかなあと妄想してしまう。

担当者にとって、情報には二種類ある。「出したい情報」と「出したくない情報」だ。「国際会議の場で自分の省の大臣が容姿に関わる発言をし、それが国際的に問題視された」という事象・情報は、担当者にとって「出したい情報」だったのか「出したくない情報」だったのか。もし前者だったとすれば、懇意の記者に前もって注意を喚起しておくこともできるだろう。

 

マスコミとの「つきあい」方について、外務省の場合はこんな感じだそうだ。
<外務省は「霞クラブ」の記者を外務官僚にとって都合の良い記事を書く「与党」とそうでない「野党」に区別する。この場合、マスコミ自体の色はあまり関係ない。読売、産経、NHKが「与党」で、朝日、テレビ朝日が「野党」ということではない。個々の記者が書く記事を外務省は実によくフォローしている。テレビ放送についても政官界に影響を与えるテレビ朝日の「サンデープロジェクト」などは放送内容を活字に起こして回覧する。そして記者だけでなく、有識者についても外務省にとっての「与党」、「野党」の色分けをする。そして、「与党」記者に対して、飲食・飲酒接待を継続的に行い、不祥事などの報道については筆を抑えてもらうように働きかける。最初は高級レストランで飲み食いするが、その内、友人としての雰囲気を出すために、あえて「縄のれん」などに通い気さくな感じで記者に接触する。 

 これも心理工作の一環だ。>(佐藤優『外務省犯罪黒書』講談社 2015年 p.108)

 

佐藤氏の同書によれば、「懇意の記者」は育てることもできる。

「与党」の記者には優先的に特ダネを提供していけばその記者はどんどん出世してさらに影響力を増す。また、「おつきあい」の中で「たまたま」「ちょっと過剰な」接待の事実があれば「野党」記者の出世のスピードをスロウ・ダウンさせることもできる。(参考文献・上掲書。p.102-110。本文ではもっと直接的な表現になっている)

 

「出したい情報」と「出したくない情報」という観点から興味深いのは8月3日発売の週刊文春の『防衛官僚覆面座談会』(p.26-27)だ。

週刊誌の覆面座談会記事の中にはどう考えてもライターの脳内創作みたいなものもある。『覆面OL赤裸々座談会~わたしたち、オジサンのこんなとこチェックしてます』とか『覆面女子大生座談会~今ドキの女の子って、結構カゲキ』とか。何読んでんだ。
なので、週刊文春の防衛官僚覆面座談会も割り引いて読まなければならない。この座談会がホンモノだとして、<官僚A 私も過去二十五年以上三十人以上の大臣に仕えてきたけれど、申し訳ないが史上最低。>(p.27)というのは、防衛官僚にとって「出したい情報」だったのか「出したくない情報」だったのか。

マスコミが「ネタ元」から「出したくない情報」を引っ張り出すときには相当気を使うという。
<週刊誌の編集者や記者なら誰でも、他人に絶対明かせない「ネタ元」を何人か持っている。まさに墓場まで持っていく関係だ。私もマスコミ関係者はもちろん、政界、官界、財界、さらには肩書きのつけようのない人物も含めて、何人かの大切なネタ元がいる。
 そうした人物とは、たいてい人目につかない場所で密会する。密会の場は様々だ。早朝のホテルで、ヨーグルトとフルーツ、コーヒーだけの朝食をともにすることもあれば、昼や夜に会食することもある。会うのは常に「完全な個室」だ。もちろん入るときと出るときは別々で、必ず時差を設ける。従業員の教育が徹底されていて口の堅い店を選ぶのは言うまでもない。(略)
 かつて、上海総領事館の電信官が中国公安当局から情報提供を強要され、自殺していた事件をスクープしたことがあった。その際は目立たないビジネスホテルの一室に関係者の一人を呼び出した。義理があって、その人物がどうしても断れないルートを使った。ベッドが大半を占拠している狭い部屋で向き合った。彼の警戒感と怯えの色が浮かんだ表情は、今でも鮮明に覚えている。>(新谷学『「週刊文春」編集長の仕事術』ダイヤモンド社 2017年 kindle版203-215/2641)

 

もし稲田氏が<申し訳ないが史上最低。>というのが防衛省にとって「出したくない情報」ならば、覆面とはいえ座談会は引き受けないのではないか。
稲田氏が防衛大臣であり続けた場合には、犯人探しも起こるだろうし、その場合には同席した官僚仲間から密告されるリスクもある。
逆に、防衛省的に稲田氏の人物評が「出したい情報」であり、今が出してもよいタイミングと考えていたなら、座談会記事が載ったのはよくわかる話だ。

情報操作のことを横文字でスピン/Spinという。この情報操作=スピンについて、ノンフィクションライターの窪田順正氏はこう書いている。
<人が情報を誰かに伝えようとする時、自分が有利になるよう、作為的に情報の内容を変えようとするのは当然である。「客観報道」などということを標榜する報道機関ほど、主観と独断に満ちている。まったく操作をおこなわず、加工なしの情報を伝達できるのは、感情のない神のような存在しかいない。

 では本当に恐ろしいのはなにか。それは、スピンの存在すら知らず、それが中立公平な情報だと信じ込まされることである。恐ろしいことに、日本には、

「世の中に溢れている情報は誰かが意図的に流したものだ」

ということに気づかない、疑うことを知らない人が大勢いるのではないだろうか。>(窪田順生『スピンドクター "モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術』講談社 2009年 p.203)

 

【警告】陰謀論はあなたの心の健康をむしばみます。心の健康のために、陰謀論とネットの使用はほどほどに。

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陰謀論としての稲田朋美防衛大臣辞任~誰が「グッドルッキング」と言わせたか

稲田朋美氏が7月28日、防衛大臣を辞任した。いわゆる日報問題が直接の原因だ。

ここ1、2ヵ月ずっと気になっていることがあって、それはあの時誰が「グッドルッキング」と言わせたかである。

 

一連の稲田朋美氏バッシングが世間に流通し始めたのは6月3日シンガポール「アジア安全保障会議」での演説からではないかと思う。その席上で、稲田氏はオーストラリアとフランスの女性国防大臣について触れ、「私たちは女性で同世代、そして何より重要なのは、皆グッドルッキング!」と演説した。

それが国際的に失笑を買い、批判の対象となった、とすぐに報道されたのは記憶に新しい。

以下、陰謀論になる。
一国の大臣が国際的な場で演説をする際、ましてや母国語でない言語でスピーチをするならば、スピーチ原稿なしで演説したとは考えにくい。
責任ある立場での発言なので、事前に問題がないか防衛省内でダブルチェック、トリプルチェックを受けているはずである。
「グッドルッキング」のジョークを発案したのが稲田氏本人なのか周囲のスタッフなのかはわからないが、常日頃から他国のカウンターパートとのやりとりを行っているスタッフは問題視しなかったのだろうか。もしかして、あえて誰かがスルーしたのではないか、と思ってしまうのだ。

他官庁の例を挙げる。
<新任大臣が、うっかり役所の意図とは異なる発言をしてしまうと、役所にとって都合の悪い事態を招きかねない。それを阻止するために、新任大臣が内定すると、記者会見の前に、秘書官がコンタクトを取り、作成した答弁集を渡し、「この件については、やるといわないでください。どうしてもという場合でもこれから検討しますとおっしゃってください」という具合に、吹き込むのだ。この答弁集は、「べからず集」と呼ばれている。>(髙橋洋一『さらば財務省!』講談社 2008年 p.236。新任大臣が就任記者会見に臨む前の話とのこと)

大臣がヘンなことを言ったり、役所の方針と違う話をしたり、できもしない約束をしたりしないようにチェックするのも官僚の仕事のうちのようだ。

週刊誌レベルの話になるが、稲田氏は以前より防衛省内での評判があまりよろしくなかったようだ。

週刊文春8月3日号では<防衛官僚覆面座談会>と銘打ち、防衛省担当記者、防衛官僚A、B、Cなる人物を登場させ、こんなコメントを載せている。
<記者 で、初外遊で早速物議を醸したのが昨年八月のジブチ訪問でした。
官僚B 野球帽とサングラスの「リゾートルック」姿をみて、のけぞりましたよ(苦笑)。続く護衛艦の視察もマリンルックにハイヒール姿。規律や服装に厳格な自衛隊だからこそTPOは大事です。>(上掲誌 p.26)
<官僚A 私も過去二十五年以上三十人以上の大臣に仕えてきたけれど、申し訳ないが史上最低。本当に嵐のような一年だった……。>(上掲誌 p.27)
この週刊文春が店頭に並んだのは辞任が決まる前だが、もし辞任することがなければこの覆面官僚なるものは誰なのか、「犯人探し」が行われてもおかしくないほど踏み込んだ発言のようにも思える。また、同週の週刊新潮でも稲田氏バッシングが同時に展開されているのも大変印象的だ。

少々回り道を。
今から四半世紀前、一冊の本が世間の話題をさらった。小沢一郎氏の『日本改造計画』である。

小沢一郎氏は当時、閉塞した政治状況に風穴を開けるのではないかとおおいに期待され、おおいにおそれられた。

その本のまえがきはこう始まる。
<米国アリゾナ州北部に有名なグランド・キャニオンがある。コロラド川コロラド高原を刻んでつくった大渓谷で、深さは千二百メートルである。日本で最も高いビル、横浜のランドマークタワーは、七十階、二百九十六メートルだから、その四つ分の高さに相当する。

 ある日、私は現地に行ってみた。そして、驚いた。

 国立公園の観光地で、多くの人々が訪れるにもかかわらず、転落を防ぐ柵が見当たらないのである。しかも、大きく突き出た岩の先端には若い男女がすわり、戯れている。私はあたりを見回してみた。注意をうながす人がいないばかりか、立札すら見当たらない。日本だったら柵が施され、「立入厳禁」などの立札があちこちに立てられているはずであり、公園の管理人がとんできて注意するだろう。>(同書 p.1)

小沢氏の『日本改造計画』はそのあと、アメリカは自己責任で個人主義の社会であると述べ、日本は<自ら規制を求め、自由を放棄する。そして、地方は国に依存し、国は、責任を持って政治をリードする者がいない。>(同書p.5)>と続く。
日本が国家として自立するためには個人の自立が必要で、そのためには「グランド・キャニオン」から柵を取り払わなければならない、と同書はアジっている。

だが、このグランド・キャニオンの柵のエピソードについてこんなことを書いてある本がある。
<これは大嘘です。実際は、柵はちゃんとあります。柵が立ってないのは、観光客の入らないところだけです。グランドキャニオンには毎日、たくさんの日本人観光客が入るわけだから、この前書きを読んで首をかしげる人は多いはず。一体なぜ、こんなバカなことが書いてあるのか。

 あの本は、実は、官僚と新聞記者の合作なんですよ。小沢さんという人は、東大出のいうことは何も確認しないで信じてしまうということをちょっと利用させていただいた、われわれのイタズラなんです。小沢さんという人は、恐ろしく単純なアメリカ崇拝論者だから、それをからかったんです。そして、その本の顔である前書きで、わかる人には「この本おかしいぞ」とわかってほしいというひそかな願いもこめてね。>(テリー伊藤『お笑い大蔵省極秘情報』飛鳥新社 1996年 p.105。大蔵省(当時)主計局キャリア・軍司誠(仮名)氏の発言として記載)

グーグル画像検索で見ると、やはり柵はあるようですね。

 

アジア安全保障会議での「グッドルッキング」発言に戻る。

「グッドルッキング」ジョークがもしウケれば大臣も喜ぶ、しかしセクハラ・コードに引っかかって失笑をかえば大臣の足を引っ張るネタを懇意の記者に提供し、世間が稲田氏についてどう反応するか観測気球を上げることが出来る。どちらに転んでも損はない。

他国の女性国防大臣を引き合いに出して「私たちはグッドルッキング」と言わせることで、分かる人には「この人はおかしいぞ」とわかってほしいというひそかな願いをこめたスピーチライターが防衛省内にいたんじゃないかと思ってるんですが、中の人、いかがでしょうか。

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祝!リカちゃん人形生誕50周年(R)

歳をとるごとに自分が面白くない人間になっていると感じることがある。
世間の常識にとらわれ、幼いころにはわくわくした話にすら懐疑の目を向け距離を置いてしまう自分を発見し、がっかりする瞬間がある。
一番最近そう感じたのは、娘の持っているリカちゃん人形の解説書をふと手にとったときだった。

 

香山リカ、11歳。小学5年生。
家族、パパ 香山ピエール 36歳、音楽家。
ママ 香山織江 33歳、ファッションデザイナー。
そのほかに、双子の妹、香山ミキと香山マキ 4歳と、さらにその下に香山みくと香山かこ、香山げんという三つ子がいる。
おばあちゃん、香山洋子、と記載があり、おじいちゃんの名前はない。
今まで知らなかったがリカちゃんは6人兄弟だったのだ。

 

気になるのはピエールだ。
香山姓ということは、ムコ養子である。
リカちゃんが11歳でピエール36歳、織江33歳ということは、ピエールが25歳、織江が22歳のときにリカちゃんが生まれたわけだ。
交際期間もあるので、ピエールと織江が出会ったのはその数年前。
織江はファッションデザイナーなので、おそらく当時はまだ専門学校の学生だったのではないだろうか。
交際からリカちゃん誕生までを仮に3年とすると、19歳の服飾系専門学校生の織江は、街で自称フランス人で自称ミュージシャンの22歳のピエールに声をかけられたのだろうか。

リカちゃんママ、なかなかにスリリングな選球眼である。

結論)信頼できる音楽家のピエールは、ピエール瀧だけ。

 (FB2014年5月を再掲)

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