きっかけは、門松だった。
「門まツリー」のことをご存じの方、いらっしゃるだろうか。
1995年か6年、すなわちBG2年かBG3年のことではないかと思う。
BGはBefore Googleの略でグーグル以前の時代を指す(昨日造った)。
1998年9月にGoogle社は設立されたそうだから、1995年はBG3年で1996年はBG2年にあたる。
そのころぼくはもらい物の古いマッキントッシュで、おずおずとインターネットの世界に足を踏み入れた。
ネットに接続するときはピーゴロゴロピーという音がして、通信費の高さから平日夜と土日しか利用できない時代だったが、遠くの友人からメールが届いたときは感動的だったし、ホームページ付属の掲示板で匿名のまま見知らぬ人とコミュニケーションをとって深く語りあうというのも新鮮だった。
年齢や性別、職業、居住地域といった外見や所属などを越えて、その人自身の考え方やアイディアといった、言ってみれば「魂そのもの」みたいなものだけで意気投合できるのではないかというフィーリング、わくわく感はちょっとしたものだった。
とある掲示板で、「クリスマスツリーは11月はじめから飾られて2ヶ月近く街を彩るのに、クリスマスからたかだか1週間後のお正月の陰が薄すぎる。クリスマスツリーを11月はじめから飾るんだったら、門松だって11月なかばから飾ってやらないとかわいそうだ」という内容の書き込みをしたことがある。
そうだそうだと賛同の声があがり、見知らぬ誰かが「門松とクリスマスツリーをいっぺんに楽しめる、『門まツリー』つくっちゃいました」と写真をアップしてくれた。
クリスマスツリーのもみの木の中心部に三本の竹がすっくと立った『門まツリー』はたいそう凛々しく、当初ミスマッチと思われながらも定番と化していったイチゴ大福さながらの「大化けしそうな感じ」を漂わせていた。
ぼくはとてもうれしくなって心の中にその『門まツリー』の姿をそっとしまっておいたのだが、この年末になってそれを思い出して検索してみた。
5年か10年まえに検索したときはどうにか『門まツリー』の写真が載った掲示板にたどり着けたのだが、なんということか今回は検索でひっかけることができなかった。
なにか大切なものを永遠に喪失してしまった感覚。
グーグルで見つからないものは世の中に存在しないことと同義だ、という新時代の見えないルールを突きつけられたような感じさえし、これが21世紀の真実なのかと恐怖すら覚えた。
真面目な話、googleは「学ぶ」「調べる」といった知のあり方をがらっと変えた。
ものすごい昔は、海外の面白い未翻訳本を見つけてきて、それをネタに日本で何度も研究論文や本を書いたりするようなことをしている社会学などの研究者もいたようだけど、いまやそんなことしたらすぐ見破られてしまう。
その気があれば皆が平等に知識を収集できるという「知の民主化」が起こった、というわけだ。
物事には功罪両面があって、その反面、あまりにイージーに情報収集ができるため知的作業への敬意が薄れたこと、検索した意見やアイディアと自分自身が考えたことの区別がつきづらくなり、自分で深く考える習慣が減ったこと、「検索したけど出てこない」ことは世の中に存在しないと錯覚してしまうこと、グーグルの検索上位にでたサイトだけが参照されて「知の一極集中」が起こることなどはデメリットではある。医療関係のいい加減なサイトが駆逐されることを祈る。
グーグルに引っかからないものは存在しないと同義、って話だけど、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」では、言葉の数を減らしていくことで市民の思考を単純化していく新語法(ニュースピーク)と言うのが出てくるけど、検索結果を調整することによって人々の考え方や意見を誘導することもできると思うと、ちょっと怖い。
自分が心地よい意見だけ検索して自分の内的世界を構築する、「インターネット・バブル」ってのもある。
ともあれ、日々世界中で生まれてくるシグナルとノイズの奔流に『門まツリー』は押し流され、プライムデータとジャンクの深海の底に沈んでしまった。
しかし確かにあのとき『門まツリー』は存在し、何人かの人の心をあたためたはずである。
せめてもう一度、一目だけでも『門まツリー』に出会えたなら。
誰かどこかで見かけたら、どうか教えてください。
Amazonで売ってたりして。
(FB2013年12月7日を加筆再掲)M先生より教えていただいた「クリス松」
@nifty:デイリーポータルZ:クリスマス門松(クリス松)のススメ