人生100年時代、ライフワークを持つことは、最善の生存戦略である~ライフワーク、ライスワーク、ライクワークpart.3

ライフワークを持つといいんじゃないかという話。

中年クライシス、ミドルエイジクライシスというものがある。
人生の中年期や、現役引退期に襲ってくるもので、突如として「いったい自分は今まで何をしてきたのだろう」「自分がやりたかったことっていったい何なのだろう」「自分とはいったい何者なのだろう」という思いにとらわれる、自己一体感の悩みだ。「ああお前はなにをしてきたのだ…」と吹き来る風に問われるひとときが、中也ならずとも人生にはあるのだ。ゆやんゆよん。

クライシスというくらいなので、中年クライシスとは劇的かつ深刻なものとなることがある。
河合隼雄は中年クライシスの相談にくる人についてこう書いている。
<これらの多くの人は大なり小なり抑うつ症的な傾向に悩まされる。今まで面白かった仕事にまったく興味を失ってしまう。あるいは、何もする気がしなくなる。そして、重いときには自殺の可能性さえ出てくる。>(河合隼雄『中年クライシス』朝日新聞社 1993年 p.9)

中年クライシス、ミドルエイジクライシスは一言で言えばアイデンティティが揺らぐときである。アイデンティティとは自己同一性だ。自分が今まで自分自身であり、今このときも自分自身であり、これからもまた自分自身であり続けるという確信こそが、自分という存在の安心感のキモなのだから、それが揺らぐのはさぞ恐ろしいことだろう。

 

アイデンティティの構成要素の中に、「自分は何をしていた/いる人か」というものがある。
だから、一貫したアイデンティティを保つためには一貫したワークを持つのが有用だ。
それこそが数日来考えているライフワークなのである。

 

生きる目的であるライフワークと、生きる糧を得るライスワークが別であることは、時にプラスに働くことがある。
ライフワークとライスワークが一致すれば幸せな職業人生であるのは間違いない。
だが、ライスワークは構造的に、外部依存的であり、自己コントロールが利かない部分がある。

 

非常に現実的な話をする。
ライスワークでは、生きる糧である報酬や評価は、自分以外の外部からもたらされる。
どれだけ良い仕事をしても、自己以外の外部が評価してくれなければ報酬は得られず、ごはんが食べられない。
想像していただければわかるが、一次産業だろうが二次産業だろうが三次産業だろうがそれは同じだ。
また、金銭的報酬以外でも、政治分野であれば選挙に落ちたり政争に敗れればライスワークとしての仕事を手放さなければならない。
会社だって配置転換や人事移動があるし、景気という外部条件でライスワークとしての仕事が失われることもある。
いわゆる「土地持ち」で不動産収入で食っている人でも、人口減少社会では店子も減るし、天災や戦争で全てを失うこともある。
報酬や境遇が外部事情により左右されるライスワークでは、自己コントロールできない部分が、度合いの差はあれど残ってしまう(現実問題としては、その自己コントロール率の多い少ないの度合いこそが重要なのだが)。

 

アイデンティティの根幹をライスワークに求めることの危険性はかくのごとくであり、ライスワークと別にライフワークを持つメリットはここにある。
ライスワークは外部依存的であるがゆえに時に脆弱である。
生きる糧を得るライスワークの外部依存性をほぼゼロにするには、究極的には光合成でもしながら生きるしかない。
というわけで、ちょっと葉緑素を移植してくる。

(続く)

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45