「縁を結び、縁を尊び、縁に従う。
結縁、尊縁、随縁と、手帳の最後のページに40数年間、書いてきた。
人間関係は、縁でスタートする。
夫婦、親子、学校の縁…。森羅万象は、縁で出来ているわけです。
人間全部が作り上げている縁が重なり合って、文化になっていく。日本人が作っている何億もの縁の集大成が、日本文化になっている。
縁が順縁になったり、逆縁になったり、そうして人間というものを形作っていく。
逆縁がきても、仕方ないだろう、そのうち順縁も来るだろう。だんだんそういう境地になりますね」
齢90を越え、数多の順縁や逆縁を経たその人、中曽根康弘氏はテーブルの向こうでぼくらにそう話した(①)。
〈六〇年安保のあと、朝日新聞の記者をしていた三浦甲子二君と、松本の唐澤さんの応援に行く汽車の中で偶然一緒になったことがあります。(略)武勇伝には事欠かない侍で、河野一郎さんなんかにも遠慮会釈なしに何でもずけずけ言う人でした。彼は私の座席へ来て、いきなり「おい中曽根。おまえ、総理大臣になりたいか」と言います。もちろん「ああ、なりたいよ」と返したところ、「それじゃ、おれの言うことを聞くか。じゃ、してやるぞ」と、こうきます。
「なんだ」と訊いたところ、三浦君は「今後十年間、役職につくな」という。それで、「おい、やるか」と私の顔をじっと見つめるので、「なりたいから、やるよ」と、そう約束したのです。〉(中曽根康弘『自省録』新潮社2004年 p.72-73)
功罪や賛否はあれ、故中曽根康弘氏が、存在感のある政治家であり、人物であったことは間違いないだろう。
政策の良し悪しの判断は歴史家に任せ、中曽根氏の人生を「生きる」というテーマで見てみると、学ぶ点がいろいろある。
上記の、「雌伏」という時期を持ったこともその一つだ。
権力の中枢にい続けると見えないものも、距離を置いていると見えてくることがあるのだろう。
あるいは華々しく活躍していると結べない縁も、雌伏の時期に結ぶことが出来る。
報われない、逆風が吹く人生の時期でさえ、何か出来ることがあるのだ。
何も咲かない寒い日は
下へ下へと根を伸ばせ
やがて大きな花が咲く(高橋尚子)
(続く)
①日経ビジネス人文庫『私の履歴書ー保守政権の担い手』(2007年)内「中曽根康弘」にも
<私は四十年来、懐の手帳の最後のページに、
「結縁、尊縁、隨縁」
と自戒の言葉を書いてきた。>とある(p.574)