「総理になる一年くらい前から官房長官の目星はつけていて、後藤田(正晴)さんは私に忠告できる人物ですし、内務省の3年先輩で、しかも真ん中より左ということでお願いした。私は真ん中より右ですから」
中曽根氏はそう答えた。
サブリーダー、自分の右腕はどう選んだのか、とぼくらの誰かが質問したときのことだ。
施策や思想はどうあれ、身の処し方として故中曽根康弘氏から学べるところがあるのではないかと思ってつらつらと書いている。
朝日新聞の記者、三浦甲子二氏の勧めもあり、7年間役職につかなかった。この時期について、中曽根氏はこう言う。
〈(略)勉強会を開いて、人間のネットワークをつくることにチカラを注ぐことにしたのです。
読売新聞の渡辺恒雄さん、氏家斉一郎さんを中心にして、学者、財界人、文化人を入れて勉強会を作ったのです。その勉強会で読んだ本が、ジョン・F・ケネディが大統領になった時の内幕を書いたセオドア・ホワイトの“The Making of The President,1960”(『大統領になる方法』)でした。この本を読みながら「ははあ、J・F・ケネディは、『ケネディ・マシン』というものをこしらえて、大統領になったんだな。おれも中曽根マシンをつくらなきゃいけないな」と悟ったわけです。こうして、あらゆる分野の人々と付き合って、いざというときに力を貸してもらうためのネットワークづくりを始めたのです。〉(『自省録』p.73)
雌伏の時期に「ブレーン」を作り、幅広い見識とネットワークを得るというのも中曽根氏から学べることの一つだ。
もちろんこうしたブレーンづくりは中曽根氏の専売特許ではない。
大平正芳氏もまた、「大平ブレーン」と呼ばれる学者たちのグループがいた(中北浩爾『自民党政治の変容』NHK BOOKS 2014年 p.110-111)。
中曽根氏は、保守傍流と呼ばれた時期から大平ブレーンの作った報告書を読み込み、〈(略)「あの政策を継承するのが、私が保守本流になることだ」と語っていたという。〉(『自民党政治の変容』p.122)
さらに面白いのが〈注目すべきは、こうした大平人脈とのつながりが、右派として知られた中曽根を穏健化させたことである。〉(『自民党政治の変容』p.123)
前述の中曽根マシン、ナカソネとナベツネの勉強会と聞くと、最高権力者とマスコミのドンみたいな感じでずいぶんとアブラっこくヤニっこい絵面が浮かぶが、大事なのは、この勉強会は中曽根もナベツネ氏も若く、まだまだ「これからの人」であるタイミングで始められているということだ。
若い時期から長きにわたりネットワークを構築し、知見を深めよ。考えや思想の違う人すら取り込み、自らの幅やウイングを広げよ。それがあとあと役に立つ。
そんなこともまた、中曽根氏から学べることではないだろうか。
(続く)