発言や行動に対する評価を人格に対する評価と混同しないほうがラク、という話。

発言や行動に対する批判を、人格に対する攻撃として捉える傾向がアジア人には比較的強い、という話を聞いたことがある。東大からロッテに入団し、その後コロンビア大学でMBAとった小林至氏が書いていたような、あるいはそれこそ岩田健太郎先生が書いていたかもしれない。
ほんとかどうか知らないが、アングロ・サクソンは言動に対する批判と人格に対する批判を切り分ける傾向にあるとか(まあ人によるでしょうが、そこらへん実際いかがでしょうか)。
アジア人でそうした傾向があるとすると、言行一致を理想とする陽明学の影響か、あるいはそうした精神風土があるから陽明学が育まれたのか。

 

言動と人格を一体のものと捉えると、「ここらへんの行動がおかしい」という行動に対して「おれ達は頑張っている!」という人格寄りの反論が出てくる。
行動が適切である/適切でないという話と、頑張ってる/頑張っていないという話はイコールではないのに、そこらへんが混在すると議論はすすまない。
ぼく自身は、頑張らずに行動が適切である、という状況が最も好ましいと思っている。頑張り過ぎると維持可能性が下がるからだ。
言動に対する評価と人格に対する評価は切り分けて扱ったほうが精神衛生上よろしいように思うがいかがなものだろうか。

 

それにしても陽明学から王陽明を想起し、王陽明から王大人を連想してしまうのはまさに世代の病いだと思う。し、知っているのか雷電。

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3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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  • 作者:髙橋 宏和
  • 出版社/メーカー: 世界文化社
  • 発売日: 2015/11/06
  • メディア: 単行本