人の世は不条理で、たとえば同じ時代に生まれ、同じスタートラインから「ヨーイドン」でスタートしたとしてもその後の人生はまったく異なる。
ぼくは1973年生まれでそれなりに頑張ってきたつもりだが、たとえば翌1974年生まれのハローキティには人気も収入も到底及ばない。
キティのやつ、総収益が約8.8兆円だそうで、同学年としては随分差がついたものだ。
どこでこんなに差がついたのか今となってはわからないが、こういうのがいわゆる「格差社会」というのだろう。
キティちゃん、いや敬意を込めてこれからはキティさんと呼ばせてもらうが、キティさんと同じ学年に「八千代チャーマー」ちゃんがいる。
おかっぱ頭と和服が似合うおしとやかな女の子だが、誰かこの八千代チャーマーちゃんのことを覚えているかたはおられるだろうか。
あるいは八千代チャーマーちゃんは覚えていなくても、同学年の「バニー&マッティ」のことは覚えているかもしれない。
いずれにせよ1974年生まれのキティさんと八千代チャーマーちゃん、バニィ&マッティの間には、いまや埋めがたい差がついてしまった。最近では同窓会やっても全然盛り上がらないともっぱらのウワサである。
こうした格差は現代の大きな問題の一つだが、競争社会である以上、スタートの平等が確保されていればある程度の格差は仕方がないのかもしれない。
しかしながら見落としてはいけないのは、社会の包摂力である。
現状、キティさんと八千代チャーマーちゃんでは相当以上の格差がある。
だが、サンリオ社会は成功者のキティさんを賞賛しこそするものの、八千代チャーマーちゃんの存在を無視したりしない。決して八千代チャーマーちゃんのことを「黒歴史」として葬ったりはしないのだ。
サンリオ公式サイトではキティさんも八千代チャーマーちゃんもバニィ&マッティも等しく存在が認められ、今も1974年生まれとして仲良く並んでいる。
この包摂力こそ、我々が見習わなければならないものなのではないだろうか。
包摂が必要な理由は、ヒューマニズムだけではない。プラグマティズムでもある。
サンリオ公式サイトを見ると、今もまた次から次へと新たなキャラクターが生まれいることがわかる。
2020年代に生まれたものだけでも、「ぼさにまる」「まいまいまいごえん」「ぺたぺたみにりあん」などなど、キティさんの活躍に甘えることなく新しい才能を世に送り出しているのだ。
正直、そうした才能たちの誰が大成するかはわからない。
だがもしかしたら、そうした新しい才能たちの中から次の世のキティさんが生まれくるかもしれない。
こうした若手たちは飲み会のたびに「オレ、キティさんみたいにビッグになりたいっす」と夢を語っているという。
次々とこうした若い才能にチャレンジを許せるのも、サンリオ社会が包摂力に富むからである。
日本社会も、包摂力に裏打ちされた自由で活力のある社会を目指したいものである。
蛇足になるが公平を期すために言及する。サンリオ社会の包摂力の源泉はキティさんのがんばりにある。
どんな仕事も嫌がらずに引き受けたからこそキティさんはこれだけの成功をおさめ、サンリオ社会を豊かにして包摂力を高めた。
普通であれば「ワイがなりふり構わず頑張って稼いだのになんで売れない同期や後輩を養わなければならないんや」と言って闇営業したり独立して個人事務所を立ち上げたりしそうなものだ。だがキティさんは決してそうしない。なぜそうしないかについては、キティさんは黙して語らず静かに微笑むだけなのだ。