アラフィフを襲う、バケツ1杯の水に墨汁1滴垂らしたくらいのある感情について。

(自ツイートを保管用にまとめたものなのでぶつ切れの文章です)

・逃げも隠れもしない団塊ジュニア世代なんですが、団塊ジュニアや氷河期世代は時々きちんと「こんなんワシらが望んでた未来とちゃうで」ってことは言っとかないといけないと思う。現状が変わらなくても。 犬は吠えるがキャラバンは進む。 けれど、キャラバンが進んでも犬は吠え続けるのだ。

 

・異議申し立てくらいはしとかないと、後世の人に「氷河期世代は自分の境遇に異議はなかったらしい」と思われちゃう。

 

・長い間、上がつかえていてなおかつ下が入ってこない「永遠の“最近の若いヤツ”」世代でしたがようやく上の世代(厳密には上の上の世代くらい)が抜け始めてやっと団塊ジュニア、氷河期世代が責任年代になってきました。特にオールドトラディショナルな分野 文句言いながらも社会を回してまいりましょう。

 

・団塊Jr・氷河期だからなのか、アラフィフだからなのか不明だけど、バケツ1杯の水に墨汁1滴垂らしたくらいのうっすらとした希死念慮をなんとか飼いならしながら生きてる感じ 。ある年代に差し掛かると、エロスの女神よりもタナトスのほうが魅惑的に見えてくる。自分がこの歳になってはじめて実感したけれど。

この先どうなるかはわからない。50歳越えるとすこんと何か取り憑いていたものが落ちるのか、それともこのままバケツの中の墨汁の色味がじわりじわりと濃くなるのか。

一人ぐらしの高齢者が犬とか猫とか飼うの、ああしないとこの世に自分をつないでおくものがなくなっちゃうからではないかと思う。

 

・現実問題として、このうっすらとした希死念慮に飲み込まれるわけにはいかない。これをどう飼い慣らすかについて、借金玉氏の考えを借用しようと思う。

 

〈自己肯定は無根拠であるに越したことはないのです。根拠のある自己肯定は、根拠が失われれば消え去ってしまう。 では、無根拠な自己肯定を手に入れる方法は何か。それは無根拠に他者の生を肯定することそのものだと思います。他者を肯定した分だけ、自分も肯定していいという考え方です。〉(借金玉『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』株式会社KADOKAWA 2018年 p.249)

 

・ひとさまに「生きろ」というのは無責任なことだが、「根拠は無いけど生きてていいんじゃない?生きてるほうがいいよ、よくわかんないけど」くらいは言ってもいいんじゃないかと思う。この世界は生きている者、生きようとする者のためにあるはずだ。根拠はないけど。