仕事量をどのくらいにチューニングすればちょうどいいのか問題と「宥坐の器」

仕事をし始めて20年以上が経つ。ほんの7〜8年前に大学を卒業したくらいの肌感覚なのだが(←本当)、時の経つのは早い。
いわば自営業なのでいつまで働くか日々の仕事量をどれくらいにするかはある程度コントローラブルである。幸せなことだが一方で自分で決めないといけない。
それを前提に、どのくらいの仕事量がちょうどええのかということを考えている。

『荀子』に「宥坐の器(ゆうざのき)」という話が出てくる。
孔子が魯の国の桓公の霊廟を訪れたときに、傾いた器がぶら下げてあるのに気づいた。
係の者にこれは何かと訊ねると、係の者はこう答えた。「これは宥坐の器、座右の戒めの器でしょう」。
それを聞いて孔子はこう言う。
「(略)宥坐の器とは、虚なればすなわちかたむき、中なれば即ち立ち、満つればすなわち覆(ふく)す/座右の戒めの器というものは、水が入っていないと傾き、半分ほど入っていればまっすぐに立ち、水がいっぱいに満ちるとひっくり返るものと聞きます」(『荀子』中公クラシックス 2001年 p.247-248。イメージ図は湯浅邦弘『100分de名著 菜根譚×呻吟語』p.143より)



「中庸」を説く「宥坐の器」の教えだが、ちょうどええ仕事量というのもまた「宥坐の器」なのだろう。
仕事が無ければ生活も傾くし、仕事で満ち満ちていればいつかひっくり返る。腹八分目の仕事版みたいなものかもしれない。

同じ中国古典の『呻吟語』にも、「過患は(略)多事をもって生じ、慎動をもって免(まぬか)る/人間の不幸と災いは(略)仕事が多すぎることによって生じ、行動を控えることによって免れる」とある(呂新吾『呻吟語』応務編 角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシックp.128-129)。

それにしても「宥坐の器」はどういう物理的構造になっているのだろう。重心が高めにあって偏っているのだろうことはわかるが…。
昨日からずっと「宥坐の器」の構造に頭を悩ませている。

そんなふうに仕事と関係のないことに頭を悩ませておけるくらいの余裕があるというのが、まさにちょうどええ具合の仕事量なのかもしれない。