もし誰かが公の場で「気に入らないヤツらを再教育キャンプ送りにしろ!」と言い出したら。

まったくもって仮定の話だが、もし誰かが公衆の面前で「気に入らないヤツらは再教育キャンプに送れ!」と言い出したらどうしたらよいだろうか。しかも、あまりになんの疑いもなく自信たっぷりに言うものだから、周りの人も「いいね!」とか言い出していたら。
 
一つの方法として、神がそれを望まないから、という説得の仕方はどうだろう。
〈人を裁くなかれ。自らが裁かれぬためである。汝が裁くその裁きをもって自らも裁かれ、汝が量るその量りをもって自らも量られるであろう。〉と伝えてみたらどうだろうか。
いやダメだ、この方法は、相手が「宗教は阿片だ」とか言う唯物論者だと通じない。
 
では、昔の偉い人がそれを止めているから、というのはどうだろう。
死ぬまでやるべきことを一言で言うとなんですか、と弟子に聞かれて賢者は答えた。
〈其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所は人に施すことなかれ〉。
いやダメだ、この方法は孔子より自分のほうが賢いと思っている者には通じない。
 
だいたいこういうこと言う人って、何かというと「みんなの幸せのため」とか言うんだよなあ。
しかし「最大多数の最大幸福」というのも限界があって、例えば殺人に無限の幸福を感じる人がいたからといってその殺人鬼が人を殺していいことにはならない。
思考実験をする。二人の殺人鬼と被害者の三名から成る社会があった場合、殺人に無限の幸福を感じる殺人鬼に殺人を許せば、その社会の『最大多数の最大幸福』は達成されるが、そんなのは間違っている。
 
神をも信じない、歴史上の賢者の教えも尊重しない者をどう説得したらよいだろうか。
ここは、自分のアタマで考えてもらうしかない。
だがその際には、〈無知のヴェール〉をかぶって考えてもらおう。
 
人間がものを考えるときに、意識的・無意識的に、今もっている知識に影響されてしまう。それは、自分自身の立場などの知識も含む。
だからそうしたものを全部とっぱらって、“素”の状態で考えようぜ、というのが〈無知のヴェール〉だ。
〈第一に、自分の社会的地位、階級もしくは社会的身分を誰も知らない。また、生来の資産や才能の分配・分布における自らの運、すなわち自らの知力および体力などについて知るものはいない。〉(ジョン・ロールズ『正義論 改訂版』紀伊國屋書店p.185)、そんな状態で一つ「正義」とは何か考えてみようじゃないか。
自分の社会的地位、すなわち自分は再教育キャンプに送られる側ではなく、送る側だという認識をとっぱらって考えたとき、誰かが誰かを再教育キャンプ送りにするなんて行為は正しいだろうか?自分が再教育キャンプに送られる側に回るかもしれないんだぜ?
 
もちろん、知識と思考を切り離して扱うというのは容易ではない。
だが、自分の社会的地位や属性といった知識を切り離し、何が正しいか思考を進めることはとても大事だ。
 
〈知識とは、「過去の事実の積み重ね」であり、思考とは、「未来に通じる論理の到達点」です。(略)知識の重要性を否定しているわけではありません。知識と思考を異なるものとして認識しましょうと言っているのです。
(略)
自分の頭で考えること、それは「知識と思考をはっきり区別する」ことからはじまります。「自分で考えなさい!」と言われたら、頭の中の知識を取り出してくるのではなく、むしろ知識をいったん「頭の外」に分離することが重要なのです。〉(ちきりん『自分のアタマで考えよう!』kindle版284-302/2152)
 
そんじゃーね!(←しつこい)

 

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