a tribe called doctor/World Congress of Neurologyを前に

自分の所属している日本神経学会が今日からスタート。
日帰りだけど明日参加の予定ということで、医学学会に関する数年前の苦い思い出がよみがえってきた。

外科医で雑誌『ニューヨーカー』ライターのアトゥール・ガワンデが医者の学会についてこんなことを書いている。
<医者は孤立した世界に住んでいる。出血と検査と切り刻まれる人から成る異質の世界だ。(略)身内の者にも理解されない世界であり、ある意味では、運動選手や兵士やプロの音楽家が置かれている状況と似ているかもしれない。だが、そういう人たちとは違って、医者は孤立しているだけでなく孤独なのである。研修期間を終え、スリーピーアイやミシガン州南部半島の最北端の町、あるいはマンハッタンに居を構え、たくさんの患者を相手に孤立無援の診療に当たっていると、胃癌の切除手術の後に肺炎で患者をなくしたり、家族の責め立てるような質問に答えたり、保険会社と支払いのことでもめたりするときの気持ちをわかってくれる仲間と知り合うことなどできないのだ。
しかし、一年に一度、その気持ちを分かち合える人々がある。どこを向いても仲間がいる。そして、近づいてきて親しげに隣に座る。主催者はこの学会を「外科医の議会」と呼ぶが、的を射た呼び名だ。そう、私たち...は、数日の間、いいところも悪いところもひっくるめ、医者だけの国の住人になるのである。>(『コード・ブルー 外科研修医 救急コール』医学評論社 2004年 p.103-104。第一部第5章「良い医者が悪い医者になるとき」は必読)

かくしてその年、ぼくも神経内科医という部族の一員であることを確認すべく学会会場を訪れたのだが、前日に十年ぶりぐらいに再会した後輩S先生と飲みすぎてあいにくの二日酔い。
頭痛について頭を悩ませること誰よりも深刻でまるでわがことの如く、胸に込み上げてくるものは医者同士の連帯感ではない熱い何か。
講演を聴いている間にも何度か意識を失い、あらためて昏睡coma and stuperと意識の不思議さに思いを馳せる。
脳の損傷によって行動がうまくできなくなる<失行>症状と言語の障害である<失語>の講義の際にも頭に浮かんでくるのはただただ<失態>の二文字。

 

というわけで二日酔いの学会参加であったが昨夜早めに会場を後にしたのは正解であった。あのまま失態をさらし続けたら、<医者だけの国>から永久国外退去を命じられていたかも知れない。
(FB2014年5月21日を再掲)

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

 

美意識とデジタルデトックス

「大事なのはね、美意識を持つこと」

その女性は、医学生のぼくより10数歳は年上だった。

「美意識っていうのは簡単で、なにが自分にとってNGで、なにがOKかってこと」

そういってその人はワイングラスに口をつけた。

 

ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのテートギャラリーには、ここ数年、知的エリートたちが数多く通ってきているという。その目的はひとつ、「美意識」を鍛えるため。

グローバル人材やスーパーエリートたちは今、こぞって美意識を鍛えにきている。その背景や理由とは、を説いたのが山口周著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか 経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社 2017年)である。

この本の著者山口氏は、大学院で美学美術史を専攻し、BCGなどを経て今は組織開発・人材育成に携わっているという。徹底的に多面的に、「美意識」がエリートに求められているかを論じた良書である。

 

最近の経営者が片腕として重視するのはMBA出身者ではなくデザイナーやアーティスト感覚を持った人材だ、という話を最初に読んだのは1年ほど前のBooks&Appsでだったように思う(が元記事はうまく見つけられなかったので自信がない ①)。
「経営 デザイン」で検索すると、2014年ころからそうした記事が増えているようだ。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』によれば、今、エリートに美意識が必要とされる理由は以下のようなものだという。

すなわち、

・論理思考が普及し尽くして、論理思考だけでは他者と差別化できなくなった。「正解のコモディティ化」問題(前掲書 kindle 484/2716あたり)。

・ものごとが流動的で、原因が結果になり結果が次の問題をどんどん発生させていくVUCAな世界では分析的・論理的な情報処理方法ではついていけない。VUCAは不安定・不確実・複雑・あいまいの英語の頭文字(kindle版 134/2716や第1章)

・大局的にみると、世界の消費者の物質的欲求はほぼ満たされており、残っているのは自己実現欲求自己実現欲求を満たすために、人々が求めるのは物語をもったブランド。そのためには美意識がなければならない(第2章)

・システムの変化が早い世界では、法律が現状においつかない。「法に触れなければなにをしてもよい」という考え方の背景には「法令不遡及の法則」があるが、実際にはその時点で法令に触れなくても過去にさかのぼって罰せられる事例は複数ある(グレーゾーン金利など)(第3章)。法律という外的要因で行動を規定するのではなく、「真・善・美」という内的規範で行動することによって、あとからペナルティを受けるリスクが激減する。エリートが美意識を鍛えるのは「犯罪を犯さないため」(1500/2716)

この本から、「論理思考の時代は終わった。これからは美の時代」と結論を出すのは短絡的だ。論理思考が終わったのではなく、論理思考を身に着けているのは当然の時代になったので、さらに差別化するためにも美意識を持つことが必要というのがこの本の主張だ。新しい時代を開く者は、前の時代のスキルを一通り身に着けておくことが要求される。剣が不要の時代を開いた坂本竜馬は、剣の達人だった(S先生の教え)。

 

競争相手誰しもが論理的・合理的な情報処理をできるようになった、という観点からは、AIの台頭も見逃せない。24時間365日超高速で合理的情報処理ができるAIと同じ土俵で戦っても勝ち目はない。

戦略とは戦いを略すことだ。戦いをしないでも勝つようにしておくのが最高の戦略である。
合理的論理的思考は身に着けつつ、そこでは戦わず、美意識という今のところはまだ人間が優位な点で戦うのがAI時代の最高の生存戦略となる。

 

ではどうしたら美意識を鍛えられるか。

前掲書著者の山口氏が勧めているものの一つがVTS(=Visual Thinking Strategy)だ。

これは美術作品を徹底的に「見て、感じて、言葉にする」トレーニングである(2310/2716)。

徹底的に「見て、感じて、言葉にする」ことでパターン認識から自由になり、「豊かな気づき」が得られるようになるという(2340/2716)。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』ではあまり触れられていないが(②)、美意識を鍛えるためには身体性も大事ではなかろうか。

『「である」から「べき」は出てこない』というヒュームのカミソリの格言のごとく、論理思考だけでは決して「真・善・美」という内的規範は生み出せない。

「真・善・美」というのは死すべき定めの人間の弱さ儚さ愛おしさから出てくるもので、そこには身体的感覚が深くかかわっている。

 

食の美に関わる仕事、ソムリエの田崎真也氏は五感、中でも嗅覚を豊かにすることを勧めている(田崎真也『言葉にして伝える技術』祥伝社新書 2010年 P140-149)。

言語に出来るものはデータ化できる。データ化できるものはAIで処理できる。

視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五感の中で最も言語化できていないのは嗅覚で、その嗅覚を鍛えることの重要性をソムリエが説いているのは興味深い。

 

AI時代に我々がどう生きるべきか不安になったらネットから離れるべき、という言うのはリバネス社の丸幸弘氏だ。

<不安だったら、「週に1回、ネットにつながらない遊び」をしたらいい。その日にはスマホを触らない。それによって自分の感性が磨かれてくる。ネットの中にあるものは、全部AIに置き換わると思ったらいい。ネットに出ていない真実、目の前の子どもと目と目を合わせている時間だけが人の感性を豊かにします。>(藤野貴教『2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方』かんき出版 2017年 P.185)

 

AIと仕事を奪いあう時代、必要なのは美意識だ。その美意識を鍛えるためには身体性を取り戻すのが不可欠だ。時にはネットから離れること、いわゆるデジタルデトックスという奴が今こそ必要な時なのかもしれない。
デジタルデトックスで身体性や感性、美意識が磨かれるなら、デジタルデトックス、今日からぜひやってみたいと思う。

スマホタブレットに触れずに生きていけるか少々不安だが、鉄の意志を持ってすれば案外すんなりいくのではないか。デジタルデトックスを経て生まれ変わった自分に出会うのが楽しみである。

デジタルデトックスの様子は、リアルタイムで毎時間ネットにアップします。お楽しみに!(嘘)

注① おそらくこの記事。読み返してみるとちょっとニュアンスが違いました。

時流にあう人、あわない人。「有能」の定義がほんの15年で大きく変わる。 | Books&Apps

 注② 身体性について、同書(kindle 1669/2716など)および山口周氏の別の著作『外資系コンサルの知的生産術』(光文社 2015年。kindle版 1228/3323など)ではアントニオ・R・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について触れられている。

↓大事なのは身体性。大事なカラダを守るために。

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

 

「公設民営」スーパー・コンビニ登場に思う(R改)

headlines.yahoo.co.jp

8月21日配信の北海道新聞web版によると、北海道で、過疎地の「買い物難民」を救うために自治体がスーパーの建設費を補助するスーパー・コンビニの「公設民営」の事例がいくつか見られるという。
おそらく「一企業だけを公的にサポートしてよいのか」という議論があり、それを乗り越えてのスーパー・コンビニ「公設民営」なのだと思われる。

先日北海道を旅行してきたのだが、スーパー・コンビニはまさに社会的インフラだと痛感させられた。日本全国どこでもなんでも手に入るというのは大変なことだ。

 

投資家、瀧本哲史氏は著書『戦略がすべて』(新潮新書 2015年)の中で「北海道は日本の縮図。北海道で起こることは全国で起こる」(p.123-127)と述べた。
 折しもnewsweek日本版2017.8/15号では「人口減少社会日本」が特集されている。
人口減少社会日本で、スーパー・コンビニ「公設民営」事例は増えていくだろうから、いまのうちに研究しておくべきかもしれない。

 

ちょっと飛躍するけど、今後は人口密集エリアでの診療所・病院の公設民営事例も増えていくだろう。

人口密集エリアは家賃も高く医療機関同士の競争も激しいが、医療機関の主な収入源である保険収入は全国一律で、真面目な医療機関ほど存続が難しい。
存続のために怪しげな自由診療やストライクゾーンぎりぎりの医療行為を行う医療機関が増えてくると、保険診療内で良識的な医療を住民に提供するニーズが明確化してくる。しかしそうした保険診療内での良識的な医療行為は、完全民間ベースだと人口密集エリアでは維持不能になり、結果、公設民営の診療所が必要とされる、という流れを想定している。
ただ、医療の場合は提供者と需要者の間の情報の非対称性により、スーパー・コンビニの不在よりも問題が明確化しづらいかもしれない(不適切な医療行為が行われていても気づきにくい)。

 

hirokatz.hateblo.jp

 (FB2017年8月22日を加筆再掲)

読書感想文を書きたくない子の気持ち。

読書感想文を嬉々として書くようなやつとは友だちになれない。

そんなふうにそのころのぼくは思っていた。ぼくもまた、読書感想文を書きたくない子どもの一人だった。

 

<大人は誰でも元は子供だった(そのことを覚えている人は少ないのだけれど)>。

そんなことをリヨン生まれの飛行士が言っていた。ほんとだねー。

歳をとるにつれて、子どもだったころの記憶はどんどん薄れていってしまう。ヒツジのこととかバラ色のれんがでできた、窓に花が、屋根にはハトのいる家のことを考えるより、形や数字のことばかり考えるようになるから(ここまで246文字)。
だから、読書感想文を書きたくない子どもだったときのことをギリギリ覚えているうちに書き残しておきたい。明日には忘れてしまうかもしれないから。

読書感想文を書きたくない子には2種類いる。

本そのものが嫌いな子と、本は好きなんだけど読書感想文は書きたくない、という子と。ぼくは後者だった。
本そのものが嫌いな子は、それはそれで仕方がない。スポーツ嫌いな子を無理やりスポーツ好きにすることはできないのと一緒で、読書嫌いな子を読書好きにすることはできない。

本を読むことは素晴らしいと個人的には思うし、読書の習慣があれば人生が豊かになると思うけど、それはスポーツに関しても同様だ。スポーツ好きの人は、スポーツの習慣があれば人生豊かになるから、ぜひともみんなスポーツしなよ、と思っているだろう。やだよめんどくさい。

まあでも、本好きスポーツ嫌い族が渋々体育の時間や運動会につきあったんだから、本嫌いスポーツ好き族も読書感想文くらいつきあってもバチはあたるまい。

たまに本好きスポーツ好き族という人たちもいるが、そういう人たちは大きくなったら椎名誠にでもなれるんじゃないかな。いいなあ。

さて、本は好きだけど読書感想文は嫌い、という子どものことに戻る。
「感想なんて人に言うもんじゃない」

そのころ、そんなふうに思っていた。

本を読んで心が動くのは事実だけど、自分の心のうちをわざわざ人に言うなんて恥ずかしい。自分の感動は誰にも秘密のまま、大事にとっておきたい。もやもやふわふわぽかぽかした気持ちを、言葉に変えることすら嫌だ。本を読んで生まれたもやもやふわふわぽかぽかした気持ちは、自分の心の中にそのままとっておくべきものだ。文字なんていう目に見えるものに変換するのすら冒涜で、なぜなら<かんじんなことは目では見えない>ものだから。
なぜ自分の心の内側を、先生の命令に従って誰かに見せなきゃいけないんだろう?そんな恥ずかしいことなんて、絶対イヤだ。
そんなふうに思って、読書感想文は後回しになっていく。
大人の言葉で言えば「心情の吐露は他人から強制されるべきではない」ってのが本好き読書感想文嫌いの子の気持ちだろうか。

算数ドリルなんて夏休みのはじめに終えてしまっているくせに、読書感想文と自由研究だけが最後の最後まで残る。ぼくはそんな子で、始業式の朝、読書感想文を書き始めてたくらいだ。

hirokatz.hateblo.jp

 

そのときの自分に向けてメッセ―ジを送るとしたら、「とにかく終わらせろ」ということで、そのためには内容は二の次、三の次。
文字数が埋まらないときはまわりにアンケートを取るとよい。アンケートをそのまま原稿用紙に書くんじゃなく、アンケート結果を書くときはこんなふうに書く。

本を読んだあと、ぼくは家ぞくと主人こうの行どうについて話しあいました。
お父さんは主人こうの行どうは自分かってだと思うと言いました。
お母さんは主人こうの気もちもわかるわ、と言いました。

ぼくはお父さんとお母さんと話しあってみて、どちらが正しいのかまだよくわかりませんでした。もしかしたら、おとなになるとわかるのかもしれないと思いました。
学こうがはじまったら友だちのみんなともこの本の話をしてみたいと思います。早く学こうがはじまればいいのに。

 

ボイントは、「家族と」「本について話し合う」「多様な意見を尊重」「断定的なことは言わない」「自分の心情は吐露しない」「大人になること=成長、学校が始まること=共同体への帰属に対して前向き、肯定的」ということ。

なにより大事なことは、これで218文字、原稿用紙の半分が埋まるということだ。
読書感想文を読むのは先生という大人で、大人は形や数字のことを考える生き物だから。

健闘を祈る。


引用文献:サンテグジュペリ星の王子さま』(池澤夏樹訳 集英社 2006年)

 あのバラも曲者だよなあ。

 

 

www.hirokatz.jp

 

 ↓読書感想文には向かないけど、病院に行く前には必読。

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

利他と利己ー「生まれながらに人を憎まず」オバマ氏Twitterツイートに思う。

www.cnn.co.jp

<「生まれた時から肌の色や出自や宗教を理由に他人を憎む人などいない。憎しみは学ぶものだ。そして、もし憎しみを学べるのなら、愛することも教えられるだろう。なぜなら人間にとって、憎しみよりも愛の方がずっと自然なのだから」>

8月12日にオバマ前大統領がツイッターに投稿したそんな文章が、世界中で共感を呼んでいるという(CNN.co.jp 8月16日記事)。

 

人間が生まれながらに持っている性質が善か悪か、人間というものは利他的な存在なのか利己的な存在なのかは古来より論争の的であった。

聖書は「汝の敵を愛せ」と教える。

古代ギリシャの哲人は<(略)人間も親切をするように生まれついているのであるから、なにか親切なことをしたときや、その他公益のために人と協力した場合には、彼の創られた目的を果たしたのであり、自己の本分を全うしたのである。>(マルクス・アウレーリウス『自省録』岩波文庫 kindle版 2420/6243)と言う。

孟子は、人間にはもともと「人に忍びざるの心」=人の不幸を見逃せない心が備わっていて、その証拠に小さな子どもが井戸に落ちようとしているのを見たら誰だって心が痛むではないかと説く(吉田松陰『講孟劄記(上)』講談社学術文庫 昭和54年 p141-142)。

 

人間のもともとの性質を考える思考実験として文学作品を挙げることもできる。

まだ社会慣れしていない子どもたちを未開の地・無人島に放り出したらどうなるかを想定して、互いに協力して理性的に行動するはずだと説いたのがジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』(原題は『二年間の休暇』)だ。それに対し、いやいやそうではない、良識や規則のないまま少年たちをほうっておいたら野性や獣性が暴走して相当ひどいことになると書いたのがウィリアム・ゴールディング『蠅の王』だ。

こうした性善説性悪説の二項対立に異を唱える立場もある。

とある作家はエッセイの中で、自分は性善説性悪説も取らない。自分が採用するのは「性悪(しょうわる)説」だ、と述べた(と思うが原典が見つからない。たぶん遠藤周作氏のエッセイだったように思うが、ご存じのかたお教えください)。
「性悪(しょうわる)説」というのは、人間は生まれながらに性悪(しょうわる)で、人に意地悪したり妬んだりひがんだりするが、悪魔というほどは悪くなく、環境によってよくも悪くもなる、という考え方である。
環境によって人は良くも悪くもなるという考え方は古代中国にもあり、礼儀作法で人間の行動を良くしようというのが礼家、法律によって人間を縛ってやろうというのが法家の立場であろう。

 

環境によって人間は天使にも悪魔にもなる、ただ基本的には人間というのは「性悪(しょうわる)」なものだという「性悪(しょうわる)説」は大変現実的に思われる。
置かれた環境によって人はどこまでも暴走し、信じられないほど残酷にもなり得る、というのはスタンフォード監獄実験やミルグラム実験が教えてくれる。環境が人を極限まで残酷にし得る例として、近年の事例ではアブグレイブ刑務所での捕虜虐待事件を挙げることもできる。

環境が人を狂わせるのか、あるいはもともとの獣性を解き放つのかはわからないが、変な環境には近づかないのが吉である。

人間のもともとの性質が善いものか悪いものか、なんの制約もない状態で人間という生き物は利他的に振る舞うのか利己的に振る舞うのか、ということについて、自然科学的アプローチではやや楽観的な立場が多い。
動物学者フランス・ドゥ・ヴァールは、ボノボチンパンジーなど霊長類の観察を通じて、人間性への洞察を深めた。

ドゥ・ヴァールによると、ボノボよりチンパンジーのほうがより攻撃的であり、ボノボは平和を愛し、互いに慈しみあう行動がよくみられる動物であるという(『道徳性の起原』紀伊国屋書店 2014年 p.85-86など)。幸いなことに、我々人間はボノボのほうにより近いそうだ。

 

ほかの動物でも利他的な行動は広くみられる。

上掲のドゥ・ヴァール『道徳性の起原』では、立てなくなった象エレノアを助けようとするほかの象グレイスの例が描かれている(p.41)。立てなくなったエレノアが絶命したとき、エレノアは涙を流し悲しんだという。

ネズミの一種、ラットですら利他的行動を示す。

関西大学のグループが2015年にAnimal Cognition誌に寄稿した論文"Rats demonstrate helping behavior toward a soaked conspecific”によれば、ラットは水に浸かった仲間を助けるためにドアを開けるという行動をすぐに学び、興味深いことにエサを得るためのドアを開ける前に仲間を助けることすらするという。

ぼくは自然科学に親しんだ者の一人として、性善説に従い、生涯にわたって利他的な行動をとり続けることをここに誓う。
マルクス・アウレーリウスも言うではないか、<善い人間のあり方如何について論じるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ>(『自省録』kindle版 2567/6243)。

 

しかし困ったことに利他と利己について、最近また別の研究が出てきた。
科学雑誌『Nature Human Behaviour』に出たletter”Prosocial apathy for helping others when effort is required”によると、人間は、自分が損する場合には他者に益を与えるような利利他的行動はあんまりとりたがらないイキモノだという。

http://www.nature.com/articles/s41562-017-0131#author-information

 

この研究の、「人間は自分が損して他者に利益を与える行動をとりたがらない」という結論は、先ほど生涯にわたって利他的行動をとり続けると誓ったばかりのぼくには到底受け入れがたい。人間というものは、自分が損しても他者に利益を与える生き物のはずなのだ。

もっとも、この研究論文、有料なので本文は読んでいない。なにしろ本文を読むためには20ドルかかる。自分が20ドル損してNature誌に利益を与えるなんて、とてもじゃないが耐えがたいことではないだろうか。
(facebook 2017年7月4日を大幅加筆)

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

 

竹富島で会いましょう(R改)

沖縄病、というそうだ。

沖縄を訪れた者はみな、心の一部を沖縄に置いてきてしまう。

そのなかには沖縄に恋し焦がれて、とうとう沖縄に移り住む者もいる。

思い出すのは、いつか見た石垣島竹富島

 

亜熱帯の、濃い緑の中、白い一本の道がまっすぐに続く。

空には巨大な入道雲。

借りた自転車に乗って、誰も来ない道をゆっくりとゆく。

 

カラカラと車輪の音、時々風。それ以外は何の音もしない。

無音。

ただひたすらに自転車をこぐ。

 

むこうから、赤銅色に日焼けした小柄な老人が黒い水牛を連れてのんびりと歩いてくる。

言葉もなく通り過ぎる。

たぶんこの先、二度と会うこともない。

 

浜辺に着き、しばし佇む。

砂浜、遠浅の海、太陽。

いったい、これ以上何が人間に必要だというのだろう。

あと必要なのは、ビールかな?

 

遠くで雷鳴が聞こえる。

南の島に激しく短い雨が降る。

やがて雨も上がり、夕方の強い日差しが樹々に力を与える。

天空には虹がかかり、ぼくは船に乗るため港を目指す。

 

民宿に戻ると、誰かが爪弾く三線の音が聞こえてくる。

もうすぐ星も出るだろう。

心地良い疲れの中

ぼくは眠りに落ちた。

 
(hirokatz.tdiary 2003年7月30日を加筆再掲)

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

 関連記事

hirokatz.hateblo.jp

hirokatz.hateblo.jp

hirokatz.hateblo.jp

hirokatz.hateblo.jp

人生のカベにぶつかり、まわり道することになった人へ。

「このまま働き続けたら家庭も身体も壊れてしまう。クビになってもいいから、このままの仕事の仕方はムリ、と上司に言おうと思う。

今までストレートでここまで来たけど、寄り道しても回り道しても自分の人生を優先させなきゃならない」

内容は少しぼかしてあるけど、そんな悲壮な決意のつぶやきを、あるときtwitterで見かけた。

 

「stop to smell roses, 道ばたのバラの香りをかぐために立ち止まれる、そんな人生をぼくは送りたいね」

知人のオーストラリア人が昔そんなことを言っていた。

無精ひげに襟元のよれよれのTシャツのくせに、なかなかいいことを言うと感心してからもう何年も経つ。

 

もし人生が旅ならば、最終目的地は、死だ。であるならば、あんまりストレートに旅路を急ぎ過ぎるのも考えものだ。

寄り道、まわり道に右往左往に一進一退、あっちでバラの香りをかぎ、壁にぶつかっては立ち止まって来し方行く末を考えたりしてせいぜい旅路を愉しみながらやっていくしかないんだろうとも思う。

 

実際、生きていればなんとかなることも多い。

そのときはまわり道に見えてもあとから考えるとあれが役に立ったなんて気づくことはざらにあるものだ。

スティーブ・ジョブズが大学の授業をドロップアウトしてからのめり込んだのが美しく文字を書く学問・カリグラフィで、その時にはまったく役に立たなかった美しい文字を書くというアイディアと技術が、10年後にマッキントッシュの字体を美しいものにしたのは有名な話だ。

いくらまわり道、寄り道をしたって生きていればなんとかなる、そんなことを古人たちは口ぐちに語っている。

古来ローマ人曰く、<生きているかぎり私は希望をいだく. dum spiro spero.>(柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』岩波文庫 2003年 p.104)。レバノンには<死んでないやつには、まだチャンスがある>ということわざがある(曽野綾子『アラブの格言』新潮新書 2003年 p.61)。

 

大学受験に失敗して浪人が決まったときに、同じく浪人が決まった友人Tが、水道橋の坂道を下りながら言った。

「現役で受かった奴らより1年長生きすればいいんだ!」。


それ以来、ぼくは人生でうまく行かないことがあるたびに、まわり道した分だけ他人より長生きして帳尻をあわすことにしている。
今のところ平均寿命より7~8年長生きすれば元は取れる計算で、最近では周囲からも「お前は長生きするよ」と言ってもらえるようになった。

 

なにかにつまづいてうまく行かないとき、人生でまわり道をすることが決まったとき、まだ見ぬ友よ、どうか絶望しないでほしい。
肩の力を抜き、お茶でも入れて、「そのぶんひとより長生きすればいっか」とつぶやいてみてほしい。

そう思う人が増えれば増えるほど、過剰な緊張に満ち満ちた日本社会ももう少しリラックスしてイージーゴーイングな生きやすい世の中になるんじゃないだろうか。

友人Tの提唱した「うまく行かないときはそのぶん長生きすればいい」というアイディアはぼくのまわりでも少しずつ広がっている。このアイディアがこのままどんどん広がって、みんながそんなスタンスで人生を送れるようになったら、どんな社会が生まれるか想像してみてほしい。

……そうだな、きっと、日本の平均寿命がますます伸びるのは間違いないな。
(FB 2017年8月7日を加筆)

 ↓そんなあなたの長生きのために!

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45