鳥山明先生の訃報に思う。

景山民夫氏のエッセイに『アディオス・パンテラ・ロッソ』という作品がある(『普通の生活』角川文庫収載)。
景山氏がテレビの撮影か何かでスペインの田舎村に滞在している。
小さな村ではやることもなく、言葉も通じない。
 
村のレストランに入る。同じくやることのない村人たちがそこで時間をつぶしている。
レストランの女主人が白黒テレビをつける。スペイン語のニュースが流れる。
ニュースを見た村人たちが、ひそひそと、そして次第に興奮して喋り始める。
当時世界中で大人気だった映画『ピンク・パンサー』の俳優、ピーター・セラーズの訃報を伝えるニュースだった。
 
〈「アディオス・パンテラ・ロッサ」。さよなら、ピンク・パンサー。
それはピーター・セラーズが死亡したことを告げるニュースだった。
僕は、村人たちと一緒に、興奮して過去に観たピーター・セラーズの作品のことを話しまくっていた。日本語で話していた。そして、彼らは僕の言っていることが分かっていた。クルーゾー警部の仕草のひとつひとつ、セリフの一言一言が通じていた。〉(前掲書p.275)
 
鳥山明先生の(先生としか呼びようがないではないか)訃報に、世界中のファンが打ちひしがれている。
“TORIYAMA"でTwitter検索すると、英語やフランス語やスペイン語や韓国語や、とにかくそれぞれの言葉で、ファンが先生の早すぎる死を悼んでいる。
それぞれの言語はわからなくても、何が語られているかは不思議と全部わかる。 「ボクが子どものころ」とか「かめはめ波を何度も練習した」とか「悟空はボクのヒーローだった」とか、世界中のファンが思い思いに語っているのだ。
 
鳥山先生と先生の生み出した漫画世界・アニメ世界が、たくさんの人たちの価値観やモラルや世界観を育んだ。
鳥山ワールドが子どもたちに、この世はでっかい宝島だと教え、雲のマシンでどこまでも飛んでスリルな秘密とユカイな奇跡を探すアドベンチャーへといざなったのだ。
ああ、みんな集まれペンギン村へ。
 
ありがとう鳥山先生。
アディオスもサヨナラも言わないことにする。
ありがとう鳥山先生。
 
 

NASAで教えるのはリーダーシップではなくフォロワーシップ、というお話と先輩後輩システム。

(Twitterに上げたものを備忘録としてアーカイブ化しときます)


「NASAではどんなリーダーシッププログラムをやってるんですか」と宇宙飛行士の人に質問したら、「リーダーシップはあんまり教えないですね。むしろフォロワーシッププログラム。宇宙飛行士って、もともと軍の超エースとか一流科学者とかで子どもの頃からリーダーなんで」と言われてコスモを感じた。

リーダーシップとフォロワーシップをどうはぐくむかという話。
日本だと特に運動部では否応なく「先輩・後輩システム」に放り込まれるから、普通の才能の人でもリーダーシッププログラムやらされるし、傑出した人もフォロワーシッププログラムやらされるのは興味深い。

アメリカだと傑出した人は子どもの頃からリーダーばかりやってくるのでは。軍隊はわからんけど。

アメリカで育ってないからわからないけれどアメリカだとリーダーは子どもの頃からリーダー(クォーターバック&クインビー人生)でアンダードッグはアンダードッグのまま(要検証) リーダーはフォロワーの悲哀もわからないしフォロワーはリーダーの孤独もわからない(要検証)のでは。
詳しいかた教えて下さい。



日本だと「先輩・後輩システム」に放り込まれたらイチローやオオタニサンみたいな傑物も一定期間「後輩」としてフォロワーシップやらされるし、普通の人もオオタニサンみたいな人の「先輩」としてリーダーシップ「取らなければいけない」(想像すると大変そう) 日米どちらがいいかは向き不向きですね。

日本の「先輩・後輩システム」は万物と同じく良い面と悪い面があるのでしょう。

 

 

 

『流暢性の錯覚(幻想)』と『望ましい困難』 

結論は「自動翻訳でもなんでも便利に使ってじゃんじゃん情報を浴びるべきやろ」なんですが、「個人的に」医学論文は原文のまま読んだほうがよいと思うところがある。その理由をずっと考えていた。

 

あくまで個人的な感情論で、他人に押し付けるつもりはまったくない。

分からぬ単語を辞書で引き引き英文や仏文で書かれた論文を1行1行ちみちみ読むというのはいかにも効率が悪い。

そんなことに時間を取られるくらいなら、自動翻訳でもなんでも便利に使ってじゃんじゃんバリバリ出血覚悟で論文たくさん読んだほうがよいに決まっている。

 

だがあくまで心情的に、なかなかそこまで割り切れないでいた(いる)。もちろん頭ではわかっているんですよ。

たぶん立ち位置にもよるのだろう。

自分が今、研究の最前線にいるのなら大量に情報を咀嚼してゆく必要があるから、割り切って自動翻訳を駆使すると思う。残念ながらネットばかりやっている。

 

理屈とポストイットはどこにでもくっつく。

「自分が」自動翻訳を駆使して英文論文を読みまくるのに消極的な理由は怠惰とノスタルジーと精神的老い(イヤだが仕方ない)以外に、『流暢性の錯覚(幻想)(The fluency illusion)』を恐れ、論文を読むのに『望ましい困難(Desirable difficulties)』があったほうがよいとうっすらと感じているからだと思う。

『流暢性の錯覚(幻想)』とは〈表面的に情報が処理しやすくなったことで、実際には内容を記憶し深く理解していないのにもかかわらず、覚えた気になってしまう、理解した気になってしまう心理的な現象〉であり、『望ましい困難』とは〈ある程度積極的に自分の脳に負荷をかけること〉だという(安川康介『科学的根拠に基づく最高の勉強法』KADOKAWA)。

 

まあでも何事も自分の好きにやればよい。

私は好きにした、君らも好きにしろ、というやつである。

ぼくはぼくで、覚えたばかりの『流暢性の錯覚(幻想)』と『望ましい困難』という単語を使えたから満足だ(←アウトプットを意識した勉強法)。

 

 

「定年延長の流れでぼくら歴史学やってる者が危惧していることがあって」 ある時、近現代史学者のK先生が言った。

「定年延長の流れでぼくら歴史学やってる者が危惧していることがあって」 ある時、近現代史学者のK先生が言った。

 

「それは郷土史家がいなくなることなんですね。

 

今までは、いろんな地方で仕事を引退した公務員のかたとか地域の人とかアマチュアの歴史家がコツコツとその地域の歴史を調べてそれぞれの地域の郷土史を書いたりしていました。いろんな地域の公民館とか図書館とか行くとそういう郷土史が読めて、ぼくら研究者はそういうのでずいぶん助けられてるんです。

でも定年延長で生涯現役とか言われちゃうと、引退後にコツコツとその地域の歴史をまとめていたようなアマチュアの郷土史家がいなくなっちゃう。

そういう郷土史家の消滅っていうのをね、ぼくら研究者は今危惧してるんです」

 

引退後に歴史を研究し一冊の本として残すのを楽しみにするなんて、古き良き時代のイギリス紳士みたいだ。古き良き時代のイギリス紳士の理想の隠居生活といえば、一冊のイギリス史を書き残すかサセックスの丘に引っ込んで養蜂家となるかだと聞く。

 

アマチュア(amateur)という言葉はフランス語の「アマチュール/amateur、(何かを)愛する人」からきているそうで、郷土への深い愛情がアマチュア郷土史家を突き動かしているのだろう。

定年延長によりアマチュア郷土史家の持つ、地域への愛情が消えることはないが、何しろ時間とヒマが無くなるのでは研究は出来ない。

 

時間とヒマがないと研究はできないといえば、郷土史研究のもう一つの担い手といえば地域の教員だ(あるいは教員“だった”)。

中学や高校で歴史を教えつつ、自分の楽しみのため郷土史を研究をする。そんな教員のかたがたがこれまた全国にいる(あるいは“いた”)。

ただそうしたかたがたもまた、教員としての仕事が爆増していることにより、活動量は激減しているという。

 

現在を忙しく生きることでアマチュア郷土史家が減り、我々は過去を知る術を失い、過去と分断されてしまう。

あるいは現在を忙しく生きることで子育てなどが重荷となり少子化が進み、今度は未来を失う。

 

過去と未来から分断され、現在をただただ忙しく過ごす我々は、いったい何をしているのだろう。

 

 

 

サンクコストと即断即決。

とある往診サービスが撤退を発表した。診療報酬が下げられると判明した途端の、即断即決である。
 
道義的にどうかと思うが、純粋に経営的な視点だけからみれば、儲からなそうな分野から撤退するというのは仕方のないことかもしれない。
邪推だが、こうした即断即決が出来るのは、経営の実権を持つ人が医者ではなく、プロ経営者だからだろうか。
医者が経営している場合には、思い入れという名の、あえていえばサンクコストがあるからぐずぐずと撤退できない気がする。
 
ここ20数年、医療という営みを眺めてきた。
ぐいぐいと分院展開をしてゆく凄腕理事長や、どんどんと医療外の分野の事業に進出してゆく若手医師も遠くから見てきて気づいたことがある。
精力的に活動範囲を広げてゆく医師たちは、みな医大卒業後数年でいろいろなことを手がけてゆく。
これはそれぞれの意欲や能力が高いことや若さゆえのパワーもあるが、サンクコストの低さということもあるのではなかろうか。
 
旧来の医局制度では、医者として一人前とされるまで10年以上の歳月を必要としたと思う。
10年以上の時間を自分の専門とする分野に投入すると、それは一種のサンクコストとなってしまう。
何か問題意識を持ったとしても、「今さら医者以外できないしなあ」とか「専門外のことに手を出せないよなあ」という感情が生まれてしまう。
これは一種のサンクコストと言ってよいだろう。
 
我が身を振り返ってみると、俗な言い方だが大儲け間違いなしの事業をやろうと思ったことも正直ある。
だがそのたびに、「今やっている診療を放り投げてそっちやるわけにもいかないよなあ」と諦めてしまった。
今となってはもう間に合わないし、後悔しても仕方がないことではあるが、今でも時々あああの時即断即決してあれやっとけばよかったと思うことはある。
ああ、こんなことならあの時やっときゃよかったなあ、タピオカ屋。

「友だちはそんなに必要ないけれど、仲間はそこそこいたほうがよい」 という話。

「友だちはそんなに必要ないけれど、仲間はそこそこいたほうがよい」

そんな話を、吉本ばなな氏の『吉本ばななが友だちの悩みについて答える』(2021年 朝日文庫 p.22)で読んだ(もとは雀鬼・桜井章一氏の言葉らしい。原著をご存知のかたは教えてください)。

 

友だちと仲間はそうキレイに線を引けるものでもないが、この考えかたは面白い。 仲間のイメージで一番わかりやすいのは「仕事仲間」だろう。

同じタスクを力を合わせてやっていったり、同じ方向を向いて切磋琢磨したりする。

 

では、友だちと仲間はどう違うのかというと、パーソナルスペースへの侵入を許せるかかもしれない。

前掲書で書かれていたのは、友だちというのは、家に上がってこられて「喉渇いたな。何かない?」と言われて「冷蔵庫の中にジュースあるから勝手にどうぞ」と言える関係性。

あるいは部屋に入ってきて「疲れたからちょっと横になってていい?」と言われて「どーぞー」と言える間柄。

 

友だちの定義は人それぞれだけれど、たとえば仕事仲間だと、いきなり自分ちに上がってこられて勝手に冷蔵庫開けられたりゴロンと横になられたりしたら「え、何この人?!」と困惑するだろう。 確かにそう考えると、友だちと仲間は必ずしも一致しない。

 

友だちと仲間は時に重なりあうし無理やり切り分けなくてもよいが、「友だちはそんなに必要ないけれど、仲間はそこそこいたほうがよい」という考えかたは、たぶん生きていく上でとても役に立つように思う。

 

 

雀鬼いわく、「いい手はつくるのではなく生まれる」。

〈「つくる」のではなく、「生む」という感覚を持つ〉
雀鬼・桜井章一氏の言葉だ。
〈麻雀は「いい手」をつくろうと頑張るほど、うまくいかなくなるものだ。私が勝負に際して常に大切にしているものは、「つくろう」とするのではなく「生む」感覚だ。〉
(『雀鬼語録 桜井章一名言集』株式会社プレジデント社 2023年p.21-22)
 「いい手」は「つくる」のではなく「生まれる」、というのは興味深い。
つくるという言葉には全ては作り手の意のまま、思惑どおりという人意や人為のにおいがあるが、「生まれる」には何かしら人為を超えたもの、自然や運や天意みたいなものの関与を感じる。
 
身近な例で言えばたとえばいわゆる“バズ”。
バズるツイートというものは多くの場合、「つくる」というよりは「生まれる」ものではないだろうか。
 
あるいはヒット曲。
超ヒット曲でスーパーロングセラーの『残酷な天使のテーゼ』も、「生まれた」時は関係者は「面白けど売れないだろうね」という感じだったというし(及川眠子氏の2022年5月18日ツイート)、「ファリヤーセタメソ、ファリヤートゥセー」に至っては、〈突然に宇宙から下りてきた言葉〉らしい(同上)。
 
昔お世話になった編集者の方がぽろっと言っていた言葉を思い出す。
「いまだにベストセラーの作り方の絶対の方程式って無いんですよね」。
唯一の例外は有名人に本を書いてもらうことなんだって、ダディ。
 
「いい手はつくるのではなく生まれる」、というテーマは面白い。
 
話題を横展開すると、世界の若者に大きく広がったマンガ文化アニメ文化も、誰かが人為的につくったというよりは「生まれた」ものといったほうが近い気がする(もちろん「生まれる」ための努力や「育てる」ための努力があるのは当然のことだ)。
また別の話だが、「日本にはジョブズがいない」みたいな話も、ジョブズみたいな変わり者は「つくる」ものではなく「生まれる」ものだろう。
ジョブズみたいな変わり者を「つくろう」とするのではなく「生まれ」やすい土壌にしようとか「潰さない」ようにしようとかの感覚のほうがしっくりくる。
 
「いい手はつくるのではなく生まれる」というテーマはいろいろ示唆を与えてくれるので、しばらく頭の中で転がしてみたい。