NASAで教えるのはリーダーシップではなくフォロワーシップ、というお話と先輩後輩システム。
(Twitterに上げたものを備忘録としてアーカイブ化しときます)
・「NASAではどんなリーダーシッププログラムをやってるんですか」と宇宙飛行士の人に質問したら、「リーダーシップはあんまり教えないですね。むしろフォロワーシッププログラム。宇宙飛行士って、もともと軍の超エースとか一流科学者とかで子どもの頃からリーダーなんで」と言われてコスモを感じた。
リーダーシップとフォロワーシップをどうはぐくむかという話。
日本だと特に運動部では否応なく「先輩・後輩システム」に放り込まれるから、普通の才能の人でもリーダーシッププログラムやらされるし、傑出した人もフォロワーシッププログラムやらされるのは興味深い。
アメリカだと傑出した人は子どもの頃からリーダーばかりやってくるのでは。軍隊はわからんけど。
アメリカで育ってないからわからないけれどアメリカだとリーダーは子どもの頃からリーダー(クォーターバック&クインビー人生)でアンダードッグはアンダードッグのまま(要検証) リーダーはフォロワーの悲哀もわからないしフォロワーはリーダーの孤独もわからない(要検証)のでは。
詳しいかた教えて下さい。
日本だと「先輩・後輩システム」に放り込まれたらイチローやオオタニサンみたいな傑物も一定期間「後輩」としてフォロワーシップやらされるし、普通の人もオオタニサンみたいな人の「先輩」としてリーダーシップ「取らなければいけない」(想像すると大変そう) 日米どちらがいいかは向き不向きですね。
日本の「先輩・後輩システム」は万物と同じく良い面と悪い面があるのでしょう。
『流暢性の錯覚(幻想)』と『望ましい困難』
結論は「自動翻訳でもなんでも便利に使ってじゃんじゃん情報を浴びるべきやろ」なんですが、「個人的に」医学論文は原文のまま読んだほうがよいと思うところがある。その理由をずっと考えていた。
あくまで個人的な感情論で、他人に押し付けるつもりはまったくない。
分からぬ単語を辞書で引き引き英文や仏文で書かれた論文を1行1行ちみちみ読むというのはいかにも効率が悪い。
そんなことに時間を取られるくらいなら、自動翻訳でもなんでも便利に使ってじゃんじゃんバリバリ出血覚悟で論文たくさん読んだほうがよいに決まっている。
だがあくまで心情的に、なかなかそこまで割り切れないでいた(いる)。もちろん頭ではわかっているんですよ。
たぶん立ち位置にもよるのだろう。
自分が今、研究の最前線にいるのなら大量に情報を咀嚼してゆく必要があるから、割り切って自動翻訳を駆使すると思う。残念ながらネットばかりやっている。
理屈とポストイットはどこにでもくっつく。
「自分が」自動翻訳を駆使して英文論文を読みまくるのに消極的な理由は怠惰とノスタルジーと精神的老い(イヤだが仕方ない)以外に、『流暢性の錯覚(幻想)(The fluency illusion)』を恐れ、論文を読むのに『望ましい困難(Desirable difficulties)』があったほうがよいとうっすらと感じているからだと思う。
『流暢性の錯覚(幻想)』とは〈表面的に情報が処理しやすくなったことで、実際には内容を記憶し深く理解していないのにもかかわらず、覚えた気になってしまう、理解した気になってしまう心理的な現象〉であり、『望ましい困難』とは〈ある程度積極的に自分の脳に負荷をかけること〉だという(安川康介『科学的根拠に基づく最高の勉強法』KADOKAWA)。
まあでも何事も自分の好きにやればよい。
私は好きにした、君らも好きにしろ、というやつである。
ぼくはぼくで、覚えたばかりの『流暢性の錯覚(幻想)』と『望ましい困難』という単語を使えたから満足だ(←アウトプットを意識した勉強法)。
「定年延長の流れでぼくら歴史学やってる者が危惧していることがあって」 ある時、近現代史学者のK先生が言った。
「定年延長の流れでぼくら歴史学やってる者が危惧していることがあって」 ある時、近現代史学者のK先生が言った。
「それは郷土史家がいなくなることなんですね。
今までは、いろんな地方で仕事を引退した公務員のかたとか地域の人とかアマチュアの歴史家がコツコツとその地域の歴史を調べてそれぞれの地域の郷土史を書いたりしていました。いろんな地域の公民館とか図書館とか行くとそういう郷土史が読めて、ぼくら研究者はそういうのでずいぶん助けられてるんです。
でも定年延長で生涯現役とか言われちゃうと、引退後にコツコツとその地域の歴史をまとめていたようなアマチュアの郷土史家がいなくなっちゃう。
そういう郷土史家の消滅っていうのをね、ぼくら研究者は今危惧してるんです」
引退後に歴史を研究し一冊の本として残すのを楽しみにするなんて、古き良き時代のイギリス紳士みたいだ。古き良き時代のイギリス紳士の理想の隠居生活といえば、一冊のイギリス史を書き残すかサセックスの丘に引っ込んで養蜂家となるかだと聞く。
アマチュア(amateur)という言葉はフランス語の「アマチュール/amateur、(何かを)愛する人」からきているそうで、郷土への深い愛情がアマチュア郷土史家を突き動かしているのだろう。
定年延長によりアマチュア郷土史家の持つ、地域への愛情が消えることはないが、何しろ時間とヒマが無くなるのでは研究は出来ない。
時間とヒマがないと研究はできないといえば、郷土史研究のもう一つの担い手といえば地域の教員だ(あるいは教員“だった”)。
中学や高校で歴史を教えつつ、自分の楽しみのため郷土史を研究をする。そんな教員のかたがたがこれまた全国にいる(あるいは“いた”)。
ただそうしたかたがたもまた、教員としての仕事が爆増していることにより、活動量は激減しているという。
現在を忙しく生きることでアマチュア郷土史家が減り、我々は過去を知る術を失い、過去と分断されてしまう。
あるいは現在を忙しく生きることで子育てなどが重荷となり少子化が進み、今度は未来を失う。
過去と未来から分断され、現在をただただ忙しく過ごす我々は、いったい何をしているのだろう。
サンクコストと即断即決。
「友だちはそんなに必要ないけれど、仲間はそこそこいたほうがよい」 という話。
「友だちはそんなに必要ないけれど、仲間はそこそこいたほうがよい」
そんな話を、吉本ばなな氏の『吉本ばななが友だちの悩みについて答える』(2021年 朝日文庫 p.22)で読んだ(もとは雀鬼・桜井章一氏の言葉らしい。原著をご存知のかたは教えてください)。
友だちと仲間はそうキレイに線を引けるものでもないが、この考えかたは面白い。 仲間のイメージで一番わかりやすいのは「仕事仲間」だろう。
同じタスクを力を合わせてやっていったり、同じ方向を向いて切磋琢磨したりする。
では、友だちと仲間はどう違うのかというと、パーソナルスペースへの侵入を許せるかかもしれない。
前掲書で書かれていたのは、友だちというのは、家に上がってこられて「喉渇いたな。何かない?」と言われて「冷蔵庫の中にジュースあるから勝手にどうぞ」と言える関係性。
あるいは部屋に入ってきて「疲れたからちょっと横になってていい?」と言われて「どーぞー」と言える間柄。
友だちの定義は人それぞれだけれど、たとえば仕事仲間だと、いきなり自分ちに上がってこられて勝手に冷蔵庫開けられたりゴロンと横になられたりしたら「え、何この人?!」と困惑するだろう。 確かにそう考えると、友だちと仲間は必ずしも一致しない。
友だちと仲間は時に重なりあうし無理やり切り分けなくてもよいが、「友だちはそんなに必要ないけれど、仲間はそこそこいたほうがよい」という考えかたは、たぶん生きていく上でとても役に立つように思う。