「子どもや若者にさ、『そんな小さいことで悩むなんてバカらしい』とか言う大人いるじゃない?あれ、意味ないよね」
確かこんな初夏、銀座の街が夕暮れに染まる時間帯だった。
いたずらな小さい天使がビルの陰から顔を覗かせた先にそのバーはあって、店の軒先の木樽をかこんで僕たちはジャマイカの瓶ビールを飲んでいた。
仙台の大学院で数学の博士を取ったというその男性はたしか証券会社系に勤めていて、なにしろ今から四半世紀も前の話だから、ぼくは数学の博士が証券会社でどんな仕事をしてるんだろうなんてぼんやり思ったものだ。今だと金融とか証券取引に数学が要るというのはわかるけど、googleもFacebookもまだ無く、たぶんAmazonとLTCMが産声を上げたころの話。
「そりゃ大人から見れば子どもや若者の悩みは小さいかもしれない。でもその悩みを入れておく、なんていうか‘容れ物’も大人に比べて小さい。小さな悩みでもその‘容れ物’はいっぱいいっぱいになっちゃう。大人は大きな‘容れ物’に大きな悩み、子どもや若者は小さな‘容れ物’に小さな悩み。どっちもいっぱいいっぱいで苦しんでいるのは同じなんだから、悩みが大きい小さいとか言っても仕方ないのさ」
ぼくはタバコは吸わないんだけど特別なときだけ葉巻を楽しむんだ、そう言ってその人は葉巻に火をつけた。紫煙が夜空に上っていったが、四半世紀前の話なんで路上喫煙も大目に見ていただきたい。
それからその人は、これから経済成長するのはインドかもしれない、と力説したり、でもこの間インドに行ったら10年前に建設し始めた橋がまだ工事中だったからやっぱりインドはインドだなあなんて弱気になったりして、なんだかんだでその人とあったのはそのときたった一度だったけど、やっぱりそのときの話はこうして何度も思い出す。