ラーニングの次に「来る」のは、クエスチョニングではないか。ウォーレン・バーガー『Q思考』(ダイヤモンド社)を読んで、ぼくは予感した。
クエスチョニングというのは文字通り、「質問すること」、もっと言えば「問い続けること」である。
昔ながらの教授法、ティーチングが〈外部からの形成〉であり、過去の知識を伝達する〈静的〉なものであり、ラーニングが〈内部からの発達〉であり、経験から発して未来を指向する〈動的〉なものであるならば(〈 〉内の用語はジョン・デューイ『経験と教育』講談社学術文庫から借りた)、クエスチョニングは「外の世界と内なる価値観・理想との差異に対する違和感」に立脚し、「問うては試し、試しては動く」という、コマ送り的なムーブメントである。
〈最近の研究で、イギリスの4歳の女児は、一日で平均390回の質問をすることがわかった〉(上掲書kindle版72/4563)。
しかし、ほとんどの子どもは、成長するにつれ、質問することをやめてしまう。我々の文化では、質問は理解力の低さととられ、弱さと解釈されるからだ。
だがしかし、偉業を成し遂げた人たちはみな、問うことも問われることも恐れなかった。
「写真ができるまで、なぜこんなに待たなきゃいけないの?」
ポラロイドカメラが発明されたのは、エドウィン・ランドが娘にそう問われたのがきっかけだったという(上掲書 1458/4563)。
あるいはピーター・ドラッカーがさまざまな企業のコンサルタントとして、業種を越えて引っ張りだこだったのは、彼が正しい「答え」をくれるからではなく、正しい「問い」をくれるからだった(上掲書 3305/4563)。
シンギュラリティが議論される半世紀前にピカソはこう言った。「コンピューターは役に立たない。答えしかくれないからだ」(上掲書 636/4563)。
あらゆる事象に対し、「なぜ?」「もし〜だったら?」「どうすれば?」と問うことが、クエスチョニングのコツだと筆者は言う。
問い続けることは知的体力がいる。
人間は、どっちつかずの宙ぶらりんには耐え難いものだからだ。
それでもなお、次の時代を切り開かんと思う者は、問い続けることをやめてはならない。
〈(略)私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです。あなたの心の中の未解決なものすべてに対して忍耐を持たれることを。そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書かれた書物のように、愛されることを。今すぐ答えを捜さないで下さい。(略)今はあなたは問いを生きて下さい。〉(リルケ 「若き詩人への手紙」新潮文庫p.31)
ウォーレン・バーガー『Q思考』、原題は「A More Beautiful Question」、もっと美しい問い、という。
同書は、すべてのことに「なぜ」を投げかける大事さを教えてくれる。地球上のすべての人は、今すぐクエスチョニングを始めて、あらゆることに「なぜ」と問うべきである。
それにしてもなぜ、人間は最近読んだ本に、こうもやすやすと影響されてしまうのだろうか。