親子というもの。

<親子の関係については、『かもめのジョナサン』という世界的ベストセラーを書いたリチャード・バックという作家も面白いことを言っていました。

彼とは対談をしたのですが、あれこれ話をしているうちに、何の気なしに「あなた、お子さんいるの?」と訊いたら、「イエス・アンド・ノー」って答える。「どういう意味?」「僕と妻のあいだには息子がいる。だから、イエスだ」「じゃあ、アンド・ノーというのは何だ」>(城山三郎『少しだけ、無理して生きる』新潮文庫 平成二十四年 p.70)

 

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 今朝のニュースでは、2019年現在、子どもたちのなりたい職業第1位は「YouTuber」であるという。

昭和時代、ぼくらの子どものころのあこがれといえば野球選手やサッカー選手、テレビアイドルだったはずで、隔世の感がある。一言でいえば「たのきんからHikakinへ」というわけか、と思ったが親父ギャグ扱いされるのは明らかだから一言でいうのは控えておいた。昭和は遠くなりにけり。

 

親子というのは難しい。

価値観は時代によってどんどん変わっていくが、親の世代の価値観のまま親は子に接するし、子は親の心配をよそに新しい時代の価値観で生きていく。

それぞれの価値観に従って、時に親は子をおさえつけしめつけカタにはめようとし、時に子は親に反発し飛び出していく。

親は「うちの息子/娘は何をやっているんだ。アホか」と嘆くし、子は「うちの親は何を言っているんだ。アホか」とののしる。

かといって親がなんでもかんでも子どもの価値観にすりよって、「しっかり動画編集して、あなたはナンバーワンYouTuberにならなきゃダメ!勉強してる暇があったら早く変顔の練習しなさい!」みたいに育てるのもアレだしなあ。

 

親と子、とくに父親と子の関係でいつも頭に浮かぶのは映画『リトル・ダンサー(原題『Billy Eliot』)の父親だ。息子のために、信念を捨て、裏切り者とののしられてもスト破りに参加する姿は、同じ父親として心を強く動かされる。

 

冒頭の引用文はこう続く。

<「じゃあ、アンド・ノーというのは何だ」「しかし、息子はまだ小さくて、一体どういう人間になるのか、どんなことが好きで、どんなところに人生の価値を見出していくのか僕にはまだわからないし、息子だって、リチャード・バックという父親がどこに人生の価値を見出して生きているのか理解していない。つまり、『親父があんなことをやるのは、それは、親父のこんな考え方があるからだ。おれはああいう生き方は好きじゃないけど、でもあれが親父の価値観だ』とわかってくれた時に初めて、精神的に親子になれるんだ」。だから、肉体的にはイエスだけれど、精神的にはまだノーだというわけです。

 親子の断絶なんて言葉がありますが、バックさんは、断絶は当り前だ、と言うのです。最初は断絶しているものなんだ、それがお互いにだんだん成熟してくる。親だって成熟するわけです。子供を見て、「ああ、子供は自分と違った生き方をしている。でも、あいつはああいうことに生きがいを見出して生きているのだから、あれはあれでいいんだ」と理解してやれるようになる。

「親子だから、おまえはおれの子供だから」って親が子に価値観を押しつける。子は子で、「親なんかにわかるもんか」と無視をする。それではいけなくて、親子が違う生き方をするのは当然だけれど、その価値観の違いを互いにきちんと理解し、認め合う。それで初めて精神的に親子になれる。>(上掲載書 p。70-71)

 

誰かの子どもである人、誰かの親である人、すべての人へ。ハッピー・クリスマス。

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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  • 作者:髙橋 宏和
  • 出版社/メーカー: 世界文化社
  • 発売日: 2015/11/06
  • メディア: 単行本