旅するように暮らしたい。

〈どこにいても そこで生まれた気がしてる〉(久保田利伸『Timeシャワーに射たれて』)
 
Timeシャワーってなんだ、シャワーに「打たれて」じゃなくて「射たれて」なのか痛そうだなとか思うけども、かつて「その土地で暮らすように旅をし、旅をするように暮らしたい」と思った。
 
石垣島でハモを食べている時だったかもしれない。石垣島で入ったバーの店主が京都から移住して来た人だったのだ(本当)。
その土地で暮らすように旅をするというのは、観光客向けのパッケージ化された売り物の体験だけではなく、土地の人が食べているものを食べ土地の人が行く店に行くということで、まあそうすると面白いよねという話だ。
 
観光客には観光客の使命があって、最大級の使命は観光客用の値段でその土地にお金を落とすということだと思うけれど、それでも時々気張って土地の人が普段していることをやってみたい。
 
「暮らすように旅をする」方法はなんとなく分かるけれど、「旅をするように暮らす」にはどうしたらよいか。
そもそも我々は、旅に何を期待するのだろうか。
 
旅に期待するものの一つは、新たな発見、新たな気づきではないだろうか。
平々凡々たる日常生活の中で「旅をする」ように新たな発見や気づきを得るにはどうするか。
その一つが「カラーバス/color bath」だ(加藤昌治『考具』CCCメディアハウス 2003年)だ。
赤なら赤、青なら青とその日の色を決めて、日常生活の中でその決めた色のものをひたすら探すのだ。
漫然と生きていると見過ごしてしまうものも、「今日は青いものを探す!」と決めて暮らすと、バンバン目に飛び込んでくる。
あんなところに青い銀行のATMがあったのかとか、同じ青い看板でも、家電量販店の看板の青と快速電車の青では微妙に青みが違うのだなと、暮らしに埋没していた発見や気づきが輝き出す。
脳みそに入ってくる情報にあえて制限をかけることで、かえって事物を見る目が研ぎ澄まされるということであろう。
 
この、入ってくる情報に制限をかけることで感覚を研ぎ澄ますというのは、もしかしたら俳句の季語なんかも同じ効果を持つのかもしれない。
季語というシバリをかけることで、日常生活では見落とすような小さな変化や美を見出すように、俳人たちは心掛けているのではないだろうか。
「旅をするように暮らす」ために俳句を始める境地にはまだないけれど、その時がきたらぜひやってみたい。
そういえば「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」と詠んだのは芭蕉であった。
 
今日も一日、旅をするように暮らせますように。
じゃあまた。

 

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