人と会うと疲れるという話。

〈「(略)田舎に引っ込んで大根とか急に作り出す人よくいるよね、最近、多いよね、あれスタミナ切れなのよ、そいであきらめちゃった人なの、他人と出会うの体力要るからね、けっこう疲れるし、でもね、他人と出会えないってのは死人と同じだと、ぼくは思うけどね、重病人、これ出会えないよね、ほら、当時のオウム真理教の信者、あれだってそうだよ、まわり全部同じなんだもん、リンチだってやっちゃうよイライラして、もちろん知人は大事よ、子供は大人が必要だし、病気の時や災難の時とかもね、でも、知人だけじゃ生きてられない人間もいるってこと、特に若い時はそう、高校生なんか親と教師だけで済ませてる子はもうそれだけで腐ってるもんね、他人という新鮮な風を受けないと、人間だって腐るんだから」〉(村上龍『ラブ&ポップ』幻冬舎文庫 平成九年 p.213-214。作品初出は一九九六年〉


他人と出会うのは、疲れる。
なぜ疲れるかというと、他人はこちらを変えてくるからだ。
他人は、じぶんのテリトリーを、侵してくる。

斎藤環氏と佐藤優氏はコロナ禍に出されたそのものズバリの題名の本、『なぜ 人に会うのはつらいのか』中公新書ラクレ 2022年)で、〈会うことは「暴力」である〉というテーマについて触れている(上掲書p.78-83)。

斎藤環氏は同書の中でこう述べる。
〈(略)人に会うというのは、どんなに相手が優しい人であっても、お互いが気を遣い合っていたとしても、それぞれの持つ領域を侵犯し合う行為なのです。相手の境界を越えなければ、会話自体が成り立ちませんから。〉(p.80)
こういう話をすると、「他人と会うの楽しいじゃん!オレ全然疲れないよ!」みたいにいう人がいるが、そうした人は、誰かと出会う時に自分が発揮する〈暴力性〉とか自らが行う〈領域侵犯〉について無自覚過ぎるのかもしれない。

やれやれ。僕はそう言ってコーヒーを温めてスパゲティを茹でた、と終わりたいところだがそれは村上違いなのでたぶんもう少し続く。