BBQから考える防御的グローバリゼーション。

1993年の夏、ウランバートルのバヤンゴルホテルのテレビではMTVが流れていて、そこではアメリカンポップソングで水着姿の女性達が踊っていた。

外国人向けのホテルだったけど、こういうのはモンゴル人の伝統的な価値観にどのような影響を与えるのだろうかとぼんやり考えた。

 

この週末、2026年3月26日ころかの数日間、Xのタイムラインにはアメリカ各地のBBQの写真と、それを巡る日米のXユーザーの交流が見られた。 殺伐とした世界情勢の中、心温まる交流だと思う。
きっかけはこちらのポストだ。

 

 

インターネット文化史に残る歴史的な瞬間に立ち会うことができた。

 

バヤンゴルホテルとBBQから、グローバリゼーションについて考える。

加速主義には効果的加速主義、e/accと防御的加速主義、d/accがあるそうだが、グローバリゼーションにもまた効果的グローバリゼーションと防御的グローバリゼーションがあるのではないか。

グローバリゼーションが我々の生活を物質的、文化的に豊かにしたのは間違いない。 人やモノや情報が全地球的に往来することで我々は豊かになった。

だからといって闇雲にしゃにむに無分別にグローバリゼーションを進めれば(効果的グローバリゼーション)、それは世界各地の文化や伝統、地場産業を破壊する。

防御的加速主義が慎重にAI開発を進めるように、防御的グローバリゼーションもまた慎重にグローバリゼーションを進めてゆく。

 

ぼくは世界中の人が毎日マクドナルドを食べるなんてことは望まない。

だが普段はそれぞれの国の文化に根ざした食事をしながら、望むならば時々マクドナルドを食べたりアメリカ的なBBQを楽しんだりできるくらいの物質的、文化的なグローバリゼーションは期待したい。

もちろん自国の文化を押し付けようとも思わない。

だがもし可能ならば、「生の魚を食べるなんて気持ち悪い」と思わず、「たまにはSushiでも食べてみるか」くらいの文化的なグローバリゼーションは望みたい。

もちろん、世界中の人が毎日Sushiを食べるべきだとも、世界中の人に毎日Sushiを食べてほしいとも思わない。

むしろ、世界中の人が毎日Sushiを食べるような世界は率直に言って最悪だと思う。

もし世界中の人が毎日Sushiを食べるようになったら、こっちに回ってくるマグロが無くなってしまう。

 

 

 

幸せと菜根譚。

かつて世界で一番幸福な国と言われたこともあるデンマークの、オーデンセの街角で老人はぼくにこんなことを言った。

「幸せというのはね。
それだけでは成り立たないものなんだ。
悲しみとか傷ついた気持ちとかそういったものと一緒でないと、幸福は存在できないんだよ。
友達が死んでしまって悲しい気持ち、だけどそれでも自分はまだここにいて、残されたほかの友達と今を生きていることができると感謝する気持ち。
そんなふうに、幸せというのはいつも悲しみとともにあるのさ」

明の時代に書かれた中国の古典『菜根譚(さいこんたん)』にはこうある。
<一苦一楽して相磨練し、練極まりて福を成さば、其の福始めて久し>(中村璋八・石川力山『菜根譚』講談社学術文庫 1986年 p.111)。
<苦しんだり楽しんだりして、磨きあい、磨きあった結果が最高に達して幸福が成就されたなら、そのような幸福にしてやっと永続するものである>(同書 p.112)という意味だそうだ。

今日もまた、あちこちでたくさんの一苦と一楽が生まれて磨きあったことだろう。
願わくばそうして生まれた幸福が永続しますように。

ミッドライフクライシス対策は『花の慶次』

思春期、20代〜30代のクォーターライフクライシス、40代〜50代のミッドライフクライシス、60代以降の高齢者うつ。人生はまさに危機の連続である。
古代中国にはこうした危機の連続の人生を言い表したことわざがある。
師いわく、「私、人生の危機。こっちは気がつけばジジィ」(『人生の危機を乗り切るたった一つのヒント ベスト8000』民明書房刊より)。

こうした人生の危機の本質とは何か。
アイデンティティのゆらぎである。

自分は何者なのか。自分はどこから来てどこへ行くのか。自分の歩む道はこのままでいいのか。

そんな思いが降りかかる時、ひとはクライシスに陥る。

そうしたクライシスをどうしのぐかについて長年研究してきた(民明書房中心)。

ある時友人Aが言った。
「子どもの頃に憧れていたものを振り返るのはどうだろう」

なるほどたしかに。
アイデンティティというものは、さまざまな要素からなる。
幼き頃の憧れ、たくさんの学び、経験、失敗や成功、チョパムアーマーやファー様、人生で出会う無数のものが我々のアイデンティティを形づくる。
そう考えると、友人Aの「子どもの頃憧れていたものを振り返る」というのはアイデンティティのゆらぎに効く可能性がある。ふむぅ、つじつまは合う。

ちなみにAが子どもの頃憧れていたのって何?
「オレ?オレはねえ…ジェームズ・ボンド」
なるほど、長年のナゾが解けた。だからあんなに英国紳士っぽいのか。いつもフィッシュ・アンド・チップスしか食べないのには理由があったのだ。

翻って、自分はどうだろう。子どもの頃、憧れていたものねえ…。
わかった、『花の慶次』だ!
花の慶次こそ、ぼくが子どもの頃憧れていたものだ。

そうと分かれば話が早い。
ちょっと松風乗ってくる。

ちょんまげ健康法

「先生、認知症にちょんまげ(仮)が効くってほんと?」。
テレビで健康番組が放送された翌日、必ずこんなことを患者さんから聞かれる。
(注.2014年に書いた文です)

「昨日、芸人さんの番組でどこかの大学の教授が言っていたけど、ちょんまげ(仮)すると認知症がよくなるんですって。
学会でも発表したって言っていたわよ」

ほんまかいなと思って検索してみると、確かに先日、芸人さんの健康番組でぷりぷり県立大学(仮)の教授が<ちょんまげ(仮)が認知症に効く>という内容の話をしていたようだ。

ネットによれば、高齢者施設の認知症患者さん20人にちょんまげ(仮)をしたら、2週間後に○○テストの点数が何点あがったというような内容だったらしい。
なんでもちょんまげ(仮)をすることによって頭皮が刺激され、その刺激が海馬に伝わって海馬の萎縮を元にもどす、という話のようだ。
きちんと番組を観たわけでもないしこれから観るつもりもないが、この手の話にはたくさんの落とし穴がある。

たとえば発表者が専門外の場合。
テレビなんかだと、水虫の専門家が抗がん剤の治療について堂々と語っていることがあったりするので要注意だ。
その番組で発表していたぷりぷり県立大学(仮)教授の名前を検索してみるときちんと認知症について研究をしている人で、この点は問題ないようだ。

次に研究の手法の問題。
ちょんまげ(仮)が本当に認知症に対して効果があるのかは、ちょんまげ(仮)以外にほかの方法と比較検討して初めて言えることだ。
たとえば100人には高齢者にはちょんまげ(仮)をしてもらい、別の100人の高齢者にはパンチパーマ(仮)にしてもらう。

そうやってちょんまげ(仮)のグループとパンチパーマ(仮)のグループで○○テストをしてもらって、ちょんまげ(仮)グループの人たちのほうが圧倒的に成績がよい場合にはじめて<ちょんまげ(仮)が認知症に効く(かもしれない)>という仮の結論を出すことができる。
もちろん1回だけではまぐれかもしれないので、ここでの結論はあくまで仮の結論になる。
なんどもなんども試してから、ようやく科学は進歩するのだ。

こんな七面倒くさい手続きを踏まなければならないのは、プラセボ(偽薬)効果とかホーソン効果と呼ばれるものがあるからである。

「この薬は新しく開発された特効薬で、飲めばみるみる病気が治るんです」といわれて小麦粉を飲むと、実際に何割かの人は病気が治ってしまう。
「いわしの頭も信心から」と昔から言うように、思いこみの力ってのは結構バカにならないのだ。

だから新しい薬の効果を試すときは必ず、偽の薬を飲むグループと新薬を飲むグループに分けて、新薬内服で見られる効果から思いこみの効果をさっ引いて検討しなければならない。

ついでにいうと、このとき薬を飲む人(披検者)たちに偽薬なのか新薬なのかは決して知られてはならないし、薬を手渡す医者にもその薬が本物か偽物かわからないような段取りを組まないといけない。

薬を手渡す医者が偽薬だと知っていると顔に出てしまって、その顔色を見た被検者が影響を受けてしまいかねないからである。
薬を与える側も与えられる側も薬についての情報無しで行うこのやり方を二重盲検法という。

このちょんまげ(仮)実験では自分がちょんまげ(仮)をしているとわかってしまうのでこの二重盲検法が成り立たないのではないだろうか。

また、ホーソン効果というのもある。
工場で働く人たちの生産性をあげるにはどうすればいいか、ということでその昔実験が行われた。
照明はどのくらいの明るさがいいのか調べるために、だんだんと工場の照明を明るくしていく。
そうすると明るくすればするほど、工場の生産性があがった。
では暗くするとどうなるかということで今度は照明を暗くしていった。
おどろくことに今度も生産性があがっていく。
結論からいうと、様々な条件をどう変えても工場の生産性はあがっていいた。
生産性をあげる実験に参加しているという職員の意識や、経営者が自分たちの労働条件を気にしてくれているという感情そのものが、生産性をあげたのだという(デイル・ドーデン著「仕事は楽しいかね?」きこ書房 2001年 p.91-98  *孫引きなので誤解していたらご指摘ください)。
雑に言うと、人間には実験に参加するとがんばっちゃう傾向がある。

このぷりぷり県立大学(仮)の教授のちょんまげ(仮)実験では、そこらへんのところが問題ありそうである。
ただ、多くの実験や研究は小規模ではじめて<アタリ>をつけてから本格的で正確な実験に発展するので、実験のデザインの不完全性だけをとらえて非難するのはふさわしくないだろう。

そんなことを考えながらこの<ちょんまげ(仮)が認知症に効く>説について検索をしていくと、ちょっと問題な事柄にぶつかった。

このぷりぷり県立大学(仮)教授、ちょんまげ(仮)療法に使うビン付け油(仮)を売るベンチャー企業<ぷりぷり・ブレイン社>(仮)の社長でもあるのだ。
これでは自分の会社のビン付け油(仮)を売りたいがために健康番組に出て、ぷりぷり県立大学(仮)教授の肩書きを使って<ちょんまげ(仮)が認知症に効く>と発表したと勘ぐられてもおかしくない。
実際、この健康番組の放送以降、デパートや通販でビン付け油(仮)がバカ売れらしい。

そこまで調べてぼくはもうお腹いっぱい/fed upな状態になってしまった。
きちんと裏をとって声高に糾弾する気力もないし、不正確な情報をたれ流すのもなんなので(仮)を連発し、オチのない文章ですっきりしない。

こんな時にはいったいどんなアロマを焚けば効果があるのだろうか。

死生観と現世。

生活が思考を作り、思考が生活を作る。
たとえば死生観。

伊佐敷隆弘氏によれば、「人間は死んだらどうなるか」について、人類が出した答えは6つしかない。
すなわち、

〈1 他の人間や動物に生まれ変わる
2 別の世界で永遠に生き続ける
3 すぐそばで子孫を見守る
4 子孫の命の中に生き続ける
5 自然の中に還る
6 完全に消滅する〉
(伊佐敷隆弘『死んだらどうなるのか?死生観をめぐる6つの哲学』亜紀書房2019年 p.013)

死に対する態度という意味では、これに孔子や(おそらく)本居宣長の「わからないからそのままにしておく」という態度を付け加えたい。

人類が生み出した上記6つ+1の死生観は、1人の人の中で混在している(という)。
日本人の多くの人の心の中は1の、輪廻転生的な感覚をうっすら持ちつつ3とか6とかが共存しているのではないか。「前世」とか「生まれ変わったら」みたいな話は冗談半分の雑談としてするし、一方で「ご先祖さまに申し訳ない」みたいな感覚も生きている。

さて、こうしたうっすらとした死生観は、意外にも普段の生き方につながっているのではないか、というのが今日の仮説である。

梅原猛氏はこんなことを書いている。
〈(略)しかし、生まれ変わりの信仰をもつとしたら、今後、また自分がこの世に生きてくるときのことを考えないわけにはいかない。今度生まれてきた時に地球が人間の住めないところとなっていては困る。それゆえ、今度生まれてきた日のために、できるだけクリーンな地球を残さねばならない。(略)〉(増谷文雄・梅原猛『絶望と歓喜〈親鸞〉』角川ソフィア文庫 平成8年 p.12)

あるいは2、別の世界に生まれ変わるという死生観を持つ宗教としてはユダヤ教、キリスト教、イスラム教があるが、そうした宗教の一部の人には「早いところ〈終末〉を到来させて別の世界を実現しよう」と本当に思っている人もいるようだ。
そうした人々の死生観がベースにあるから、おそらく加速主義、特にe/accのような過激思想、〈終末〉が来たあとのことは一切知らない、みたいなスタンスが欧米から出てくるのではないか。d/accのほうはもう少しおだやかな気がする(この部分の参考文献は樋口恭介『21世紀を動かす思想』集英社新書二〇二六年。加速主義についてこの本に書かれている以上の知識を持たないことを明示しておく)。

輪廻転生の感覚は、欧米からみた「アジアの停滞」や「アジアの悠久不変」の土壌になっている(のではないか)。生まれ変わったときに世の中があまりに変わってると困るから。

こうした死生観に正解はないが、他者の行動の根底にその人がどこような死生観を持つかに思いを至らせてみるのも一興であろう。

ポイントと残高。

Tポイントにdポイント、PontaポイントにJREポイント。
世の中にはポイントと名のつくものが無数にある。
率直に言ってそういうポイントを貯めるのは楽しいことだがあるとき怖くなった。
「今ここで自分が死んだら、貯まったポイントはどうなるのだろう?」
普通に考えて、何百何千何万ポイントと積み上がったそうしたポイントは、持ち主が亡くなるとそれぞれの企業に没収されるのだろう。
遺産相続でPontaポイントを引き継いだ、みたいな話は聞いたことがない。
大数の法則で毎日毎日ポイントホルダーはどこかで誰か世を去るだろうから、そうした死蔵ポイントぶん、それぞれの企業は得をしていることになる。
そう考えると、生きてる間にポイントを使っていったほうがよいことになる。
そこまで考えて気がついた。
銀行の残高も、同じことではないか。
仕事で成功して20代30代で1億円築いた人はみなに賞賛され憧れられるだろうが、仮に1億円を残して天寿をまっとうした人がいたとしたらどうだろうか。おそらく「生きている間に使えばよかったのに」と呆れられるのではないだろうか。
してみると、このポイントの話のポイントは、残高の額ではなく「生きているかどうか」ではないだろうか。
資本主義社会を生きる以上、金は稼がねばならぬ。お米買わないといけないし。
だがうまく稼ぐのと同じくらい、うまく使わないといけない。
金を活かす使い方を学ばなければならない。
金を活かす使い方には、どのようなものがあるだろうか。
たとえば江戸時代は、「人間一生、物見遊山」と言って、芝居を観に行くとか相撲を観に行くとか後に残らぬ金の使い方が粋だとされていたという(稲田和浩・監修、三上敬・画『マンガ落語入門』)。
ベストセラー『DIE WITH ZERO』でも、著者ビル・パーキンスは体験に金を払い思い出に複利をつけることを勧めている。
有限の時間の中で体験にお金を使うというのが、金を活かす使い方なのだろう。
すべては、生きてこそ、活かしてこそ。

答えのない問いを持つ。

答えの出ない問いを持つ。
そんなことを先日友人Oと話し合ってみた。

浮世を生きていると、答えをすぐ出さなきゃいけない問題が次から次へと襲い掛かってくる。
昼ごはん何にしようかとか、発車間際の電車に飛び乗るか次のを待つかとかいったささいなことから仕事の契約など大きなことまで結論を出さなきゃいけないことばかりだ。
次から次へと訪れる問題と決断の障害物レースをこなしていると、次第に求められる決断のスピードが早くなってくる。
がしかし、そうそう簡単には結論の出ない問いというのも世の中にはあるのだ。

「人間とは何か」、「人はどう生きるべきか」、「人として何が正しいのか」、「ものごとの本質は」。
青臭いのは百も承知だが、答えの出ない問いとはそういった類のものである。
答えの出ない問いを考えることに意味があるのかと人は言うが、それでも問いを心に保ち続けることはとても大事なことなのだ。

答えの出ない問いを持ち続けることはなぜ大事なのか。
答えの出ない問いを持ち続けることで、己の心を強くしていくことができるからだ。

人間というのはどっちつかずの「宙ぶらりん」に弱い。
イギリスの軍事評論家、戦略思想家のリデル・ハートは中西輝政にこう語ったという。
<「ものごとがいずれにも決しない状態に耐えるのはとてもつらいことである。そのつらさに耐えかねて“死に至る道”(後先考えずに飛び込んでしまう衝撃的な行動)に逃げ道を求めようとするものは昔から国家にも個人にもあった。しかし、このつらい『宙ぶらりん』の状態に耐える事こそ、可能性の明確でない勝利の幻想を追い求め、国家を灰燼に帰せしめるよりは、はるかに優れた選択なのだと銘記すべきである」>(中西輝政 『本質を見抜く「考え方」』サンマーク出版 2009年 p.29)。

どっちつかずで結論の出ない「宙ぶらりん」な状態に耐えるには知的な体力が要る。
答えが出ない問いだからといって考えるのを放棄するのでもなく、誰かが与えてくれた正しそうな答えに安易に飛びつくのでもない。
答えが出ない問いだと知りつつ、それでもなお答えを考え続けてこそ心の体力づくりの王道である。

伝統や宗教、規範や道徳といったものをことごとく否定し、現代人は自由になったけれど、すべてを自らに由(よ)るという自由は結構しんどいものだ。
今まで自分をがんじがらめに縛りつけていた伝統や道徳といったものを断ち切ることで得られる自由は、上も下もなく光も闇もない無重力空間にぷかぷかと孤独にさまようことでもあるからだ。
自由を謳歌することは、孤独に耐えることでもある。
そんな宙ぶらりんの現代人が自由を味わいつくすためには、答えの出ない問いを持ち続けることによって心の体力づくりをしなければならない。
それがいやなら、孤独な自由から急いで逃げ去って、権威主義と全体主義の陶酔に身を投じることになるだろう(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 東京創元社 昭和26年)。
(ここの部分、うまく料理できなかったが、『自由からの逃走』を元ネタにして「なぜISISにヨーロッパの若者が身を投じてしまうのか」「ネット右翼はなぜ生まれたか」的な文章を作ることは可能だ。伝統と共同体を破壊し、雇用も不安定化した中で、“おおいなるもの”と一体化したくなる若者、みたいな論調で書いていくともっともらしくなるだろう。後者についてはおそらく香山リカあたりがすでに書いてると思う。でもそうしたもっともらしい言説を無批判に受け入れることも、実は答えの出ない問いを持つことと相反していて、心の体力を落とすことになるんだけども)

思考停止するな。
考え続けよ。
孤独と「宙ぶらりん」に耐え、答えの出ない問いを頭の片隅に保ち、心の体力を常に増進させて行け。

「宙ぶらりん」で中途はんぱだけどまあそんな感じでしょうか。
ふわふわしたオチもない話だけど、自由で孤独な無重力空間なのでオチませんでした。
悪しからず。
(facebook  2015年3月6日を転載)