「ねえねえ、“意味”ってどういうこと?」
先日いきなり息子に訊かれて、思わず絶句してしまった。“意味”という言葉の意味を説明するのに“意味”という言葉を使わずに説明しようとすると非常に困難であるということに気付かされたのだ。
「“意味”っていうのは、ものごとがどういうものかっていう“意味”…しまった!」という具合だ。
その場はどうにかこうにか切り抜け、なんとなく息子も納得し、そのあとはしばらく覚えたての“意味”という言葉を連発して使っていた。こんなふうに子供というのは知らないことはすぐに聞きたがるし、覚えたての言葉はすぐに使いたがる。
そんな息子とのやりとりを通じて、改めて「対話」ということについて考えさせられた。その場で感じた疑問をその場で訊きただし、自分が納得すればそれを自分の知識としてすぐに活用する、というスタイルが大変新鮮に感じられたのだ。
日本の会議(他の国の会議は知らない)では意見交換はあっても丁々発止の議論は存在しにくい。
後輩のK君の経験談だが、K君が以前に出席した会議ではその場のトップから「会議は議論の場ではない」との名言が飛び出したそうだ。そのトップの心の中では、会議は議論の場ではなく上の意向を下に申し伝えるだけの位置づけなのだろう。
そこまで自覚的ならかえって罪も軽いが、そうではなくて無自覚のまま出席者が思いのままを無整理に垂れ流し、それに対する建設的批判や質問が為されないまま、会議の終わり近くになって発言した人の意見が「じゃあだいたいその方向で」といって結論らしきものになるというのが日本の会議の一般的な形なのではないだろうか。
ぼくはそうした会議のあり方に前々からしっくりこないほうで(我ながら角の立たない良い言い方を思いついたものだ)、あれはなんなんだろうと考えていた。
明日のランチを何にするというようなちょっとした議題ならいいけれど、人手もお金も時間がかかるような結構大きな議題でもそうしたその場の空気で決まってしまうというのは大変おそろしい。
山本七平の『「空気」の研究』(文春文庫1983年)によれば、第二次世界大戦中の戦艦大和の特攻的出撃ですら、会議の「空気」で決められたという(同書 p.15-20)。
<(略)大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」できめられる。最終的決定を下し、「そうせざるを得なくしている」力をもっているのは一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。>(同書 p.16)と山本七平は述べ、そうした「空気」が議論を決めるという風潮は戦後も連綿と続いており、公害問題の専門家ですら、<(略)、多くの人は「いまの空気では、到底こういうことはマスコミなどでは言えない」という意味の発言をしている>(同書 p.20)状況だといっている。
戦艦大和の出撃や公害といった大きな問題ですら空気で決められてしまうというのは恐るべきことである。
今もその風潮は変わらず、一時期の地球温暖化問題でも、最重要視されていたのは二酸化炭素というよりもその場の「空気」だった。STAP細胞の件(2014年時)でも、きちんとした検討をする前にマスコミは一斉に持てはやし、そして雲行きが怪しくなると一斉にこきおろしたのは「空気」の仕業だろう。
話がどんどん横滑りしたので戻す。
最近までぼくは、会議の席で出席者がだらだらと自分の考え(おおくは考えといえるほどまとまっていない思いつき)を連想ゲームのように垂れ流すというのは日本独特のものだと思っていた。ムラ社会ではお互いの意見を批判しあったり、論理で議論するとこじれるからそういうふうになったのではないかと考えていたのである。
昭和の初めに日本全国を調査してまわった民俗学者、宮本常一がそのころの村の話しあい様子を書き残している。
宮本が、対馬の伊奈という村に行って、村に残された古い書き付けを貸してくれないかと村人に頼む。大事なことなので皆で協議しないと、ということで寄りあいが開かれる。朝その話が出て、昼になっても午後になっても決まらないので宮本は寄りあいの場に行ってみる。
<いってみると会場の中に板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。>(宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫 1984年 P.13)。
<七十を超した老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべに帰るというのではなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。(略)話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。>(同書 P.16-17).
こんなふうに、一つひとつの議題を論理的に検討するのではなく、連想ゲームのように話を皆で転がしていく話しあいの形式は昔からずっと日本では行われてきた。
こうした形で連想ゲームで話を転がし、なんとなくその場の「空気」が醸成されてそれによって結論が出ていくという話し合いの仕方を高取正男は連歌に例えた(『日本的思考の原型 民俗学の視角』講談社現代新書 昭和50年 p.49~58)。哲学者の中島義道はそうした「空気」を重んじる日本的な話し合いの仕方を日本のムラ社会特有のものだと嫌悪感とともに指摘している(『<対話>のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの』PHP新書)。
日本にはもっと対話が必要だという中島の意見には心より賛同する。
一方で、こうした連歌形式・連想ゲームのように時間無制限で言いたい者が言いたいだけ発言し、それを無限に積み重ねて理詰めではなくなんとなく意見を集約していくという形式の話しあいの様子は実は日本独自のものではない。
辺見庸の『もの食う人びと』(角川文庫 平成9年)の中でも、韓国の儒者の村で同じような話し合いが行われている様子が描写されている(同書 P.314-315)。ジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』にも<私は、ニューギニア高地の集落で、村会議の進行の様子を見たことがある。そのときは、村の大人全員が一堂に会して地べたに座っていた。そして、特定の人間が「議長を務める」でもなく、誰かが意見を述べては、つぎの人が意見を述べるという具合に話し合いがおこなわれていた>という記載がある(下巻『部族社会』 草思社2013年 kindle版 No.1227/5085)。
おそらく、きちんと課題を決めて論理的にそれをみなで検討するというスタイルの議論というのは人類の歴史の中で比較的新しいもので、ほとんどの話しあいでは延々と連想ゲームでいつの間にか物事が決まっていくということが多かったのではないかと思う。だらだらと仕切りなしに続く会議というのは、グローバルに存在するようだ。
唐突だが、ラテン語にはquaestoとrelectioという言葉があって、quaestoは一問一答のようにひとつの質問に対して答える形で議論を進めるやり方、relectioは一つのトピックについて自由に述べていくという方法を示すらしい。(「フランシスコ・スアレスは中世の思想家か近代の思想家か」http://d.hatena.ne.jp/yoshiyuki79/20140212/1392205194より)
ぼくたちが「会議」というものの多くは実はrelectioなのであろう。きっちりした質疑応答のある形のquaestoのつもりでrelctioである我らが日本的会議にのぞむと、話があちこちに飛ぶ割には結論が出ない「空気」重視の雰囲気にストレスをためるということなのかもしれない。
Quaetoとrelectioについてはもっと調べないといけないが、気が付けば連想も進み、だらだらと長くなってしまった。
なぜ息子の話をマクラにしてここまで長くなったかと言えば、人間のコミュニケーションというのは疑問を一つ一つ確認していくquaestoの形ではじまり、一定の知識が得られたあとは自由連想のrelectioの形式をとり、論理的な議論をしなければならない場ではquaestoに戻るのではないかと面白く思ったからだ。そうした議論のやり方を体系化した西欧というのはやはり大したものだともいえる。
まあそんなことはどうでもよくて、ほんとのことを言えば、覚えたてのquaestoとrelectioという言葉を使ってみたくて使ってみたくて仕方がなかっただけのことなんだけれども。
(FB2014年4月8日を改変再掲)
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