「医者一人育てるのに『国の税金が』1億から数億円投入されている」という都市伝説はどうはじまったのか考。

「医者一人育てるの1億円から数億円の『国の税金が』投入されている」という、あえていえば都市伝説がある。

ほとんどの医者が否定的なのは、「『国の税金』が」の部分。全体のコスト、個々人が払う授業料とかエフォートとかをひっくるめた「全体の育成コスト」が高いかどうかは人によるだろう。

医学部は6年間のカリキュラムだが、その多くは座学や見学で、医学生教育のどこに1億円から数億円の『国の税金が』投入されているというのか、というのが多くの医者の肌感覚だ。

 

また、2021年10月18日配信の『大学ジャーナル』によれば2022年度の国公私立大学医学部定員は9374人。毎年9374人前後の医学生がいて、そのそれぞれに1億から数億円の

『国の税金が』投入されているならば、国の予算に「医学生教育」として1兆円から数兆円以上の支出が記載されていなければならないことになる(「医学部は6年なので1億から数億円の『国の税金』は6年間の総額だろう」という指摘が予想されるが、同時に毎年6学年の医学部生が存在するので相殺される。すなわち、1億~数億円の『税金』÷6年間×6学年なので)。

複数の項目にわたっている可能性はあるが、たとえば令和5年度の国家予算114兆3812億円、そのうち文教および科学振興に5兆4158億円なのに、1兆円から数兆円の『国の税金が』『医学生教育のためだけに』支出されているというのはナンセンスだし、その記載もない。

これ以上の分析はぼくの能力を超えるので専門家にお任せして、都市伝説のもとを辿ってみた。

 

1988年出版の保阪正康氏の『新・大学医学部』(講談社。もとになった『続大学医学部』現代評論社は1982年刊行とのこと)にこんな一節がある。

 

〈つまり国立大医学部で六年間医学教育を受けるというのは、学生一人に対して五〇〇〇万円から六〇〇〇万円の投資が行われているということである。〉

 

(第一章 医師誕生の実態 p34/p261) ただしこの箇所では算定根拠は一切示されておらず、この数字は所与のものとして扱われている。

どこからこの数字が出てきたのか不思議に思い、さらに氏の著作を遡ってみると『大学医学部』(1987年 講談社文庫。ただしもととなった本は1981年 現代評論社より)にこんな文がある。

 

〈現に北里大学の長木大三学長は、「国立大学では学生一人に四〇〇〇万円前後の金がかかっている。私立大では一人一〇〇〇万円前後の寄付金では補助金と合わせても国立大に及ばない。せめて国立大並みの経費をかけられるようにして欲しい」といっている。〉(p.251)

 

ここで問題なのは、このすぐ前にこんな文があることだ。 〈それは、私立医科大が付属病院を拡充し、設備を整え、医学教育を行うだけの環境をつくるには、文部省の補助金は雀の涙ほどの意味しかなく、結局は、寄付金に頼らなければならないことをよく知っているからである。〉(p.251)

文脈的には、付属病院の拡充や設備に関する費用を寄付金と補助金でまかなわなければならないという話の中で出てきた数字のようだ。

 

この本の書かれた時代は、新設医大が一気に作られた直後である。1973年の「一県一医大構想」を背景に、1970年代の10年間で実に16の医大が作られた。 これは推測だが、医学教育関係者の中で「医学部作るには付属病院を建てないといけない。医療機器も入れないと行けなくて、医学教育には金かかる」という感覚があったのではないか。

 

付属病院は医学教育のためでもあるが、もちろん受益者は医学生だけではない。当然ながら多くの患者さん達も受益者となる。また、付属病院はイニシャルコストもかかるが、経営がうまくいけば医大にとっての収入源ともなりうる。

そうした多面的な付属病院の拡充コストを単純に医学生で頭割りして「医学生一人あたり4000万円の金がかかっている」として、後々その数字が一人歩きしたとすると、その計算はだいぶザクッとし過ぎている。

 

知的フェアネスのために書き添えるが、これは何も保阪正康氏(だけ)の不注意さというわけではないとぼく自身は考える。 保阪氏が取材した当時の医学教育関係者や官僚たちの共通したなんとなくの感覚、だったのだと思う。

 

上記はあくまでも保阪氏の著作のつまみぐいなので、さらに詳しいことをご存知のかたがいたら教えてください。

 

付記)『新・大学医学部』のまえがきにこうある。 〈昭和五七年三月、参議院予算委員会で新政クラブの野末陳平議員は、「私立医科大生への年間補助額は、一人当たり一八〇万円に達する。医師過剰事態を迎える折、合格率の悪い大学に税金をつぎこむのはどんなものか」と質問している。〉 ここでは私立医科大生への「税金の」投入額は180万円ということになっている。

野末陳平議員は1983年に税金党を立ち上げるほど税金問題に詳しく、また国会の質問書は関係官庁に事前に提出され、あまりに荒唐無稽だったりすれば指摘が入るだろう。野末陳平議員の出した「私立医科大生への年間補助額は1人あたり180万円」程度のほうが信ぴょう性が高いように思われる。